対岸の夕景
しつこい残暑も姿を消し、最近はすっかり秋の空。朝起きると、肺に霜が張る感覚があるのは、この時期ならではの僕だけの風物詩だ。
湯船に浸かりながら、これまでのことを振り返るには十分過ぎるほどに、時間が進んだ。さまざまな出来事に出会ってきたのではないだろうか。来年の春には僕たちは卒業を迎える。つまり、今年中にはそれぞれが未来の道を決めるための節目となる日を迎えるわけであり、僕もまた毎月その試練に立ち向かっている。
自分にとって、試練の日はとても大きな存在だ。しかし、もし君がその日を迎えたとき、僕は本当に君に向き合い、適切な言葉をかけることができるのだろうか。「大丈夫」や「頑張れ」といった当たり障りのない言葉で、君との距離を誤魔化しているのではないか。もちろん、それらの言葉に悪意はなく、心から応援している気持ちに偽りもない。ただ、自分が送り手の立場に立つと、それだけでは少し寂しい気持ちになる。
つい最近も、友人の決断に対していつものように当たり障りのない言葉をかけた。彼のこれまでの努力や苦悩を理解しているかのように話したことを、少し後悔している。伝えることより話すことが目的になり、気付かぬうちに自分が話の中心に立ってしまう悪い癖だ。自分が満足するための精一杯のエールには、どこか空虚さがある。「前を向いて」と言うよりも、隣にいる人とのつながりを伝えたい。
いつも時間が経ってから気付く。君が試験や面接を迎える日、誰かに謝らなければならない日、あるいは告白を決めた日。勇気を与えようとすること以上に、本当に大切なのは、僕として君に寄り添うことではないだろうか。君の肩の力を抜きたいのに、こちらが力んでいては仕方がない。だから僕は「自分の8割」を意識することにしよう。次に、「終わったら一杯飲みに行こう」くらいの言葉をかけられたらいい。そして寒空の下で、これまでの温かい話をしよう。
湯気に包まれた束の間の極楽で、そんなことを思っていた。ぬるま湯のシャワーが心と体を包み込み、静かに落ち着かせてくれる。これが寄り添うということなのだろうか。僕はすでにのぼせていた。