山小屋の夜

「やめたほうがいいんじゃないか」
あの時ほど友達の忠告を聞いておけばよかったと思ったことはなかった。大学一年の夏休みのことだ。一度でも山に登ったことがあるやつならぞっとするだろうが、道に迷った挙句、日没までに下山することができなかった。
 
言い訳するんじゃないが、その日はバイトの掛け持ち後にうっかり寝過ごし、出発が遅れていた。それでも登ることにしたのは、たぶん意地もあったのだろう。俺の所属していた登山部は経験の浅い新入部員が一人で山に登るのを禁止していた。だから始めは何人かに声をかけたが、飲み会だの、海外旅行だのを理由に断られた。苦学生だった俺はぬくぬく親から仕送りをもらって部活しているやつらを見返したかった。だから内緒で登ってやろうと思ったのだ。登山用のリュックに登山靴、トレッキングポール、簡易食器を部室から無断で持ち出した。寝袋やヘッドライトは持っていかなかった。そもそも日帰りのつもりだったからだ。
 
どこで間違えたのかわからないが、明らかにけもの道を歩いていた。行けども行けども正規の登山道は見つからない。携帯の充電はすっかり切れていたし、日がほとんど落ちかけて足元がおぼつかなくなっていた。だが、運よく小さな山小屋を見つけることができた。これ以上暗がりを歩くのは危険だと判断して夜明けまでやり過ごすことにした。
 
リュックをおろして汗を拭き、蒸れた登山靴のシューレースをほどくころにはすっかり日は沈み、あたりは真っ暗になっていた。山小屋と言っても急場しのぎの掘っ建て小屋だ。布団もなければ電灯もない。それでも屋根と壁と床があるだけでありがたい。日中は30度を超える炎天下だったが、山の朝晩は冷え込む。朝露に身体をさらせば体力はごっそりと削られてしまうことだろう。
 
がたつく山小屋のドアを開けて中に入った。汗をしっかり拭いたつもりだが、ひんやりとした空気に触れると鳥肌が立つほど寒かった。手探りで床にリュックをおろすと、中を漁って何か羽織れるものを探した。声をかけられたのちょうどそのときだった。
「誰かいるのか?」
驚きのあまり地面から飛び上がった。とっさになんと反応していいかわからず、俺は声のする方向に目を凝らした。あたりは完全な暗闇で、1メートル先も見えないほどだ。どんなに目を凝らしてみても声の主を見つけることはできなかった。
「悪かったね。驚かすつもりはなかったんだ」
声の主は同年代くらいの若い男のようだった。その親しみのある声の調子に、少しだけ安心した。
「先客がいたとは知らなくて、すみません」俺はそう言って謝ったが、そいつは少し笑ったような気配があった。
「謝ることはないよ。この山小屋だってぼくたちのものじゃないし。外はもう暗いから夜明けまで休んでいくといい」
ぼくたち、と言ったのが気になった。
「まだ何人かいるの?」
「ああ、連れと二人だ。お前も挨拶しろよ」
快闊なその男の声が連れに向けられた。しばらく返事を待ったが、声は暗闇の中に消えていくばかりで反応はない。気づまりな沈黙がしばらく続いたが、結局それを破ったのはその男だった。
「悪いね、連れは疲れて寝てるみたいだ」
 
同年代だと感じたが、その予想は正しかった。そいつは近所の大学生で、夏休みを利用して「連れ」と登山に来ていたのだという。正規の登山ルートから外れてしまった、と俺が嘆くと、そいつは「こっちが正規の登山ルートで合っているよ」と言って愉快そうに笑った。
「たぶん、暗くてわからなかったんだろうけど、登山口まであと1時間半くらい歩けばつくし、山頂まであと2時間半くらいだよ。赤いリボンを目印にするといい。それにこの山小屋の奥の道をまっすぐ歩くと高速道路が見える」
「そんなに近くまで来てたんだ」俺はあっけにとられて言った。
「明日はどうするつもり?ぼくらは山頂を目指すけど、一緒に行くかい?」
その男は山に慣れているようだ。ついて行ったらきっと山頂まで行けるだろう。そう考えると申し出は魅力的だったが、すでに気力が萎えていた。
「いや、いいよ。俺は明日下山する」
男は「そう」とだけ言って黙り込んだ。
 
板でできた床に替えのTシャツをひいて、ジャケットをかぶり、リュックを枕にして寝ころんでいた。沈黙の時間が増えると疲れていたのもあって、次第にまどろんだ。ぼんやりとした意識の中で、あの男の声が聞こえてきた。
「だから、この道で合ってるんだって」
「明日には山頂につくよ」
それは俺ではなく「連れ」に向けた言葉だった。たぶん、「連れ」が起きたので明日の予定を相談しているのだろう。俺は眠りに落ちた。
 
次の日、差し込む朝日の光で目を覚ますと、山小屋には俺一人だけだった。あの大学生たちは何も言わずに出て行ったのだ。少し奇妙だと思ったが、とにかく早く帰りたかった。あの男の言った通りの道を歩いて下山することができた。
 
後日、「散々な目に遭った。お前の忠告に従っておけばよかったよ」と、気軽な調子で友達に話した。しかし、俺の話を聞いたとたんに顔を青ざめさせた。
「あの山に山小屋なんてない」
友達はその登山道を何度も登っていて、道を熟知していた。じゃあ、あそこで出会った大学生二人組は一体誰なのだ?
 
関係があるかどうかわからないが、ネットのニュースによれば何年も前に2人組の大学生があの山で遭難して亡くなったのだそうだ。一人は遭難後すぐに亡くなって、もう一人は数日間死んだ友人のそばで生き延びた形跡があったという。今でもそいつは死んだ友人を励ましながら山頂を目指しているのかもしれない。そして、もし俺があの時彼らと一緒に山頂に行くと答えたらどうなっていたのだろうか。今でも眠れない夜にそのことを思い出す。

#2000字のホラー

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