素敵な「余計なお世話」への復帰戦
自分が高校生の頃、自主的に数人の友人を集めて、英語の授業をしていたことがある。可愛いプリントや冊子を用意し、わざわざ口実を作って先生からもらった新品のチョークを片手に、塾の先生のように受験英語の解法を教えていた(今思うと、何を一丁前に、、と思うが)。その友人らにとっては「余計なお世話」だっただろうに(実際に3、4人の友人が定期的に受講してくれて、担任の先生にも良い行いとして成績表でも評された)。
自分が大学生の頃、熱中していたストリートダンスでも、多くの後輩に恵まれた。僕が担当する振付作品には多くの出演者が集まった。「余計なお世話」初づいた。ダンスの振付師であるならば振付だけ伝えればいいわけだが、練習の都度、エッセイの宿題が出される(厄介な人である)。好きな色と音楽、好きなアーティストと自分の名前の関係性など、一見つながっているはずもない「好き」を出演メンバー各々で共有し、人生を探求し合う時間を作っていた。ダンスの振付だけでいいところを。。。「余計なお世話」だ。
今、こんな「余計なお世話」ができるのだろうか。(友達や後輩にとって、余計なお世話が、良かったかどうかは不明である)
友達の時間を奪うのも気の毒だ、、なんて思ったりする。「余計なお世話」ができてる時期の僕はどんなだっただろうか。当時は「余計だろうな...」と思ったことは一度もなかった。単に、目の前の当事者的に思う課題と友達に対し、主体的に向き合った(やりたいようにやっていた)結果だった。
そんな自分史は、わりと嫌いではない。
「あぁ〜、やっぱし自信ないのかな」
2019年の年末に気づくこの感覚。具体的に何かができない...とか、嫉妬しているとか、そういう局所な事象でなく、10代の自分と比べると、20代前半から、人生に対し主体性を感じれていない気がしている。「人生詰んだ」というテンションではないけれど、なんとなくワクワクしていない自分がそこに立ってそうで怖くなっている。そんな章をしっかりとめくれるように、主体性を少しずつ回帰させていく工夫と実践をしていきたい。
バイブスで意見を放つ
今年で八年目になるストリートダンス。僕にとって、ストリートダンスは、音楽を「正しく表現する」というよりも「音楽をどう聞いているかの表現」だったりする。音楽が自分と他人との共通文脈になって、各々の音楽(の聞き方)が表現としてエンコードする。
「この beatsは、こう聞きたい(とりたい)」という意思表明である。「-」という音も「●」で表現するからこそ、かっこいい世界線である。意思をバイブレーション(身体の衝動、バイブス)として放つ。そんなバイブスは、人それぞれのフレーバー次第だったりする。そんな界隈に浸かってきたこともあってか、相手の表現に対して「あーだ、こーだ」と言葉で批評するのが馬鹿らしくなる。クラブでは踊ってなんぼ。意志は踊ってみせるだけ(いや、もちろん会話もするのだが)
ダンスは身体がパレットとなり、耳が筆になる。同じ身体と耳を持った人なんていないので、隣の人を真似しても再現できない。相手に考え方を強要(余計なお世話を)しない、その人なりの表現を大切にしてほしいという僕なりの強いポリシーが出来上がる。その人なりのライフスタイルこそ文化の根源である。そうして、日本全国のストリートダンサーの生き様を広めたいという思いからアートブックを自費出版することになった。
強要と提出
意見を強要することと、意見を提出することは同義ではない。しかし、僕は勘違いするようになっていた。一人のとても大事な後輩への「余計なお世話」感を勝手に感じて以来のことだろう。長い間、一緒にいたこともあり、僕のせいで後輩の姿が窮屈に見えた。今でもその彼とはほんの少し距離をとっている。
相手に意見を強要することへの生理的な拒絶は、父親の影響も大きい。酔うと一方的に汚い言葉を吐いたり、思い通りにならないと乱暴になってしまう父を見て育った僕は、怒りの感情を使った意見の表明を、強く嫌う(尊敬する部分が多々あるから余計悲しいのだ)(単純に怖いのだ笑)。強要できる、と思うから怒るのだ。
僕の勘違いは、強要と提出を混同させてしまったことだろう。僕の最もおこがましい点は、自分の意見が持つ価値を勝手に推測してしまっていることだ。相手の創造性をつぶしてしまうのではないか、と。
その結果、行動も意見もしない場面が増えていく。こういう小さな欠如の積み重ねから、主体性の発露が地道に消えていっているのではないだろうか。
生活の中での小さなワクワクを観察し、実践する。
「余計なお世話」をしていた僕は、主体性に漲っていた。再び、「余計なお世話」をするための内発的な復帰戦をスタートしたい。生活の中にある小さな主体性・ワクワクの源泉を観察、実践し、改めて主体性の成功体験を作っていきたい。
再び、素敵な「余計なお世話」ができるように...
大人になりつつある僕は、「余計なお世話」を投げつけるのでなく、「余計なお世話」をギフトとして受け取ってもらえるような人になりたいし、サービスも作りたい。単なる「余計なお世話」は強要である。素敵な「余計なお世話」を創れるようになりたい。
自分の中にある美意識や当事者意識をもとに、ものづくりとものがたりと向き合う態度と、好きな人への愛と向き合っていく。(好きな人からのお世話は余計ではない)
そのためには、まず主体的に物事を捉えられる心(捉えちゃうぞ~っていうワクワク感)を準備し、好きな人を観察する必要がある。その準備を意識した2020年のスタートです。
※追記
https://twitter.com/njiji11960/status/1228345121067847686?s=21
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