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地元エナジー物語7 トテツの途轍もない話
あめが ふっていた。さむくて、こころぼそかった。
ふいに あめがあたらなくなったので みあげると、きみが そらいろのかさをさしだしていたんだ。だからぼく、ひっしできみに はなしかけたの。
《まってたよ。きみがだれだかわからないけど、ぼく、ずっときみをまってたんだ》
ぼくのしっぽは あめのしずくがはねるみたいに ぴょんぴょんはねて、そのとき、ぼくは わかったんだ。きみにはぼくが ひつようなんだって。
6月の雨の日、桃子は子犬を拾った。
駅を降りて、いつもの公園を通りかかると、雨が地面を打ち付ける音に紛れて、クーンとか細い鳴き声が聞こえた。皆が足早に家路を急ぐ中、桃子は音の出どころを探る。滑り台の横にある大きなクヌギの木の下に、シワシワに湿った段ボールがあった。覗き込むと、こぼれ落ちそうな瞳と少し汚れた薄茶色のしっぽがくるくるといそがしく踊る。
「おうち、ないの?」
子犬の頭を優しくなでると、子犬は桃子の手を舐めた。少し迷って、桃子は子犬を家に連れ帰ることにした。体を拭いてやると、子犬はブルブルと身震いをした。その様子がとてつもなく可愛かったので、「トテツ」と名付けた。
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ペット禁止だった1ルームのアパートを桃子はすぐに引き払った。アパートだけでなく、10年勤務した会社をやめ、中古の小さな車を買って、トテツと共に東京を出た。トテツは、桃子の生活にとてつもない変化をもたらした。桃子の子宮がなくなってから、5年が経っていた。
あなたは小さな子犬を連れていたわ。子犬と対照的に、あなたの色はかすんで見えた。だからわたし、葉っぱをゆらしたのよ。わざと大きく。そしたらあなた、見上げて言ったの。「ああ、きれい」って。その瞬間、あなたの色は明るくなったわ。
南へ南へと車を走らせて到着したのは、九州の南端にある小さな町。高台に車をとめて降りると、ユズリハの木がざわわと揺れた。見上げると、新旧の葉の色が太陽の光をうけて混ざり合っている。ユズリハの葉は、風とダンスをするように優雅に揺れて、思わず言葉が漏れ出した。「ああ、きれい」
その瞬間、映画の撮影現場でカチンコが打たれたかのように、急に世界が動き出した。ような気がした。
そして桃子は、ユズリハの木の下でジョーと出会った。
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ユズリハの群生地近くに暮らしていたジョーは、鳥と植物を愛する青年だった。町の人達は植物に詳しいジョーを頼り、庭づくりの相談をしたり、剪定をお願いしたりしていたので、いつしかそれがジョーの仕事になった。
「虐待する親に捨てられて、森の中で暮らしているんだって」
「狼に育てられた少年っていたでしょう、あの子それよ」
「学校になじめずに森で暮らしているうちに、両親が亡くなったって聞いたぜ」
みんないろいろ噂をしたが、誰も本当のことは知らなかった。
ジョーはどんなときでも双眼鏡を持ち歩き、時間ができれば鳥や植物を眺めてスケッチをした。鳥の話をしてほしい、と頼まれて地元の小学校に出向いたこともあったけれど、ジョーが話す「さしすせそ」はどうやっても「しゃししゅしぇしょ」になってしまうので、ジョーのことを笑う子がいた。ジョーは首をかしげた。ジョーはただ、鳥と植物の話をするのが好きだっただけだ。
桃子がユズリハの木の下で「きれい」と声を漏らしたその時、ジョーはそこで鳥を見ていた。雨上がりの初夏の空気は、どこかしっとりとしていて、その中にたたずむ桃子はジョーにとって鳥や植物のように映った。
ぼくね、あのはっぱのしたで わかったんだ。きみのなかに ひかりがともったの。きみのなかから ひかりがでて、きみのまわりが からふるになった。だからもう、ひっしできみに しっぽをふらなくってもいいんだ。ぼく、わかっちゃったんだ。
桃子はジョーと植物の手入れの仕事をはじめた。
二人は毎朝まだ日が昇る前に目を覚まし、温かいお茶を飲んで庭に出た。桃子は咲いた花の香りをかぎ、まもなく咲く花の蕾をなでて、水をやる。ジョーは雑草をとって土の状態を確かめてから、双眼鏡で鳥を眺める。
海沿いのカフェで中庭のバラの花切りをすると、自家焙煎のコーヒー豆をもらった。珈琲を淹れると、ジョーは「苦い」と顔をしかめた。山あいの農家に金木犀の枝木をあげると、もぎたてのマンゴーをもらった。ジョーはマンゴーを一口味わい、ひまわりのように笑った。
そのうち、ジョーと桃子は「ピーチ・ジョー」というどこかの下着屋に怒られそうな屋号をつけて、町のあちこちの庭で剪定をしたり、花の手入れをするようになった。
わたし、あなたがくると、いつも葉っぱを揺らすのよ。子犬と目配せしているのを、あなたはたぶん知らないでしょう。あなたはそのたび見上げるの。でもあなたはもう、びっくりなんてしていないわ。世界はぜんたいきれいなんだって知っているもの。
朝夕2回、桃子はトテツと一緒にユズリハの木の下を散歩した。トテツは落ち着きなくはしゃぐことはなくなったけれど、零れ落ちそうな瞳はそのまま、薄茶色の毛はひだまりのようだった。
桃子とジョーはピーチ・ジョーのお客さんからお代がわりにいただいたものを食べて暮らした。ジョーは鳥がやってくるのを待ち、桃子は蕾が開く瞬間を待つ。季節ごとに色とりどりの花が咲き乱れるピーチ・ジョーの庭は、珍しい鳥や生き物の宝庫、と噂がひろまった。
ある時、いつだったかジョーを笑った少年が、きまり悪そうにやってきた。顔に痣があった。目が悪くなってかけたメガネを友達に笑われて喧嘩になったのだと少年は説明した。
「ごめんね」
少年は言って、ジョーは笑った。桃子も笑った。眠っていたトテツはうっすらと目を開けると、ひと鳴きして、関係なさそうにまた眠りについた。