
たとえば、とても質問が苦手だった話
日常生活を送る中で、質問をする機会はそこまでない。と思う。
例えば、彼氏とデートをしている時にランチに何を食べたいか聞くこと。
例えば、カインズホームで懐中電灯の売り場を聞くこと。
例えば、最新鋭の設備が整った新宿の映画館の券売機の使い方を聞くこと。
そういう、なんていうか自分の生活に直接関わる質問をすることはとても多い。当たり前だけど。
率直に言うと、私はとても質問が苦手だ。
というよりも、苦手だということに気付かされたと言ったほうが正しいかもしれない。
・・・この記事に出てくる「中野」とは私のことである。
何度も言うけれど、質問することが本当に苦手だった。
そもそも、質問をすることに得意不得意があるということを社長の一言で知った。今までは、質問せずともなんとなく他人とのコミュニケーションはうまい具合に成り立つ人生だったのかもしれない。
だから「質問が下手すぎる。」の一言には始めはピンとこなかった。
・・・
2014年12月から仕事で取材をする機会が増えた。
取材対象者は、信州企業の社長あるいは社員だったり、大学生だったり、生産者の方々だったり。
思い返してみると、確かにやりとりがぎこちなかったフシがある。
なるほど、このぎこちなさが「質問が下手だ」ということだったのかと、この質問を投げかけられた時に初めて思った。
よく、会話をキャッチボールに例えることがあるが、私のボールはもはやボールではなくて、シャボン玉のようにふわふわと相手をかすめてはパチンと消えているような気がした。
まさに、ふわっとした質問が多いのだ。
「休みの日は何をしているんですか。」
パチン
「将来の展望を教えて下さい。」
パチン
取材した音源を聞いたら、「おいおい、プロフィール帳の一問一答のコーナーかよ」と思うくらい機械的な質問の投げかけ方だった。(多分、同世代ならわかるはず。)
質問が下手ということはどういうことか。
私が思うにそれは、質問に対して返ってきた答えをより深掘りする質問ができないということだと思う。
一言で言えば、「投げかける質問が薄っぺらい」のだ。
人には、自分で意識している苦手と、意識していない苦手がある。
意識している苦手は、克服できる可能性がある。
意識していない苦手は、克服することができない。これまた当たり前だけど。
「質問が下手すぎる。」
この一言を言われた、確か2015年の6月とか7月くらいから「人に質問する」ことに対して、特に意識を向けるようになった。取材時はもちろん、日常生活でも。
(確かあれは上田から東京までの車中。3時間の道のりを、ひたすら「場がしらけないように質問を投げかけ続けろ」というお題を出されたときは、疲弊した。)
・・・結局何が言いたいのかというと、自分の意識していない苦手なことが実はあるんだなあ。ということを知ったということ。
そうそう、結局私の質問苦手問題については、克服できたんです。
そのことについてはまた次に。
(ゆるっとつづく)
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