左目の終わりとハードモードでワンダーランドな私の世界
ある晴れた日、起きたら左側が真っ暗だった
「もしあなたが明日左目が見えなくなったら?」と言われたら、誰もがぞっとすると思うが、まさにその「ぞっ」がある日私にやってきた。
その朝は酷く重い夢でも見たのか、息苦しくて目が覚めた。
起きたら左目が真っ暗で、ついに来たかと。
ついに恐れていた日が来てしまったか、と。
とても晴れた日だったのに、暗闇の中に引きずり戻された。
ぞっとした。正直、今でもずっと、ぞっとしている。私の気持ちを的確に表す良い擬音だな「ぞっ」は。
とはいえ、仕事に向かう
どれだけ狼狽しようとも、その日は仕事だった。見えない目に無理やりコンタクトレンズをねじ込むと、メガネと保険証を鷲掴みにし家を出た。
通勤中に見えるはずもない左目をパチパチとつぶり「次、瞬きしたら見えているかも」とあるはずのない期待をかけた。1月の冷たい風が頬に当たる。
不安すぎると足取りは重くはならない。むしろ頼りなく、おぼつかなく、土をうまく踏めず、妙に軽くなるものだった。
会社へ着いて、仕事をしようとする
会社で仕事をしようとしたが、やっぱり見えない。
「自分の左側が見えないのです。」と上司に告げると、心配してすぐに眼科に行くことを勧められたのが、かなり躊躇した。左目が完全に終わる、言うなれば「ヒダリメ・ジ・エンド」の審判が下ることを恐れたのだ。「絶対行くべきだ」と説得され、怯えながら眼科に向かった。
不安のサイレン
眼科に着くまでは比較的冷静だったのに、着いた途端になぜだか急に「ああ、これはやばいな」と本能が鳴り止まぬサイレンを鳴らしてきた。
このまま、一生、左目が見えなくなるかもしれない。
そう思うと不安の心音が鳴り止まない。すごい勢いで鳥肌が立って、身体が震えてきた。
「完治はないです」と告げられる
メガネをとって、瞳孔開く目薬を打ってもらった。何も見えない裸の左目と、ほとんど見えない裸の右目が出揃ったことで、いよいよ何も見えなくなった。(私は最初から両目ともに弱視なのです。)
お医者さんの顔もわからない。人間なのかもジャージャー・ビンクスなのかも分からない。
私は医師だと名乗るぼんやりとした塊から「網膜裂孔です。完治は無いです。」と言われた。その塊はカルテを見せようとしてきたが無論見えなかった。
「見えなくて」眼科きてるのに、「カルテ見ろ」ってすごい無茶振りやないか…!
思わず、
「どれどれ〜ふむふむ、(間)見えないっつーの!」と我が人生渾身のノリツッコミをかました。
我ながら良い間だった。先生も看護師さんたちも笑っていた。どんなに悲しい時もユーモアを忘れず生きたいものだ。
同意書にはミミズを
とりあえずこれ以上網膜が剥がれないようにレーザー治療を勧められ、見えないながらも同意書にサインをした。見えないので同意書なのかもわからない。
冷静に澄ました顔で、なんとも言えぬ文字ミミズを紙に這わせた。
動揺してトイレで泣く
レーザー治療の前に時間があったので、トイレで嘆きのマートル並みにしくしく泣いていたら看護師さんが来て、私の号泣を確認し、「先生!患者が動揺しています。」と報告された。
「この状況で動揺しない人がいたら逆に見てみたいんですけどもね」とオードリー若林さんのような穏やかなツッコミを入れながら看護師さん二人に両脇を抱えられ先生の元に連れていかれた。
あくまでも光は眩しい
網膜がこれ以上剥がれないようにレーザーを打ってもらった。何やら棒状のものが顔面に当てがわれ、ピカ ピカ ピカと激しい光が私の鼻先から脳天を貫いた。これが夢なのか現実なのか分からなかった。眩しかった。
そう、光とは眩しいものなのだ。
現実がいきなり超ハードモードに
治療費は約10万円だった。保険適用で3割負担の3万円だ。
ハッとした。
銀行にいかなければいけないのだ。
いけるのか?
とりあえず眼科の1階が銀行らしい。
銀行に向かうまでは、村上春樹さんの世界の終わりとハードボイルドワンダーランドの世界にいるみたいだった。まるで暗い地下世界である。
この時の私には、たかが銀行でお金を下ろすということが、モニターを消してスーパーマリオをクリアするくらい難しいことだった。
動揺のあまり暗唱番号がどうしても思い出せなかったが、思い出せたところで何にも見えないのでフィーリングでタッチパネルを押した。タッチパネルがどこにあるかすら、本当にわからなかった。
そう、だって何も見えていないからね。奇跡的に3万円を下ろせた。
見える人々を羨んだ
待合室はコンタクトのための視力検査を行う人がぎっしりいた。 「コンタクトをすれば見えるだなんて、なんて贅沢なことなんだろう。」目が見えている人々に強い羨望の想いを抱いた。
そして、絶望がやってきた
私は視覚に頼りっぱなしの「ファッション」という世界に人生を賭けていて、本を読んだり、映画を観たりするのが生きがいで、この私から視力を奪うと言うことは、それは、つまり、絶望であった。
その後、激怒した
私は普段は怒りを全く感じない種類の人間だ。しかし、この時ばかりはメロスやランボー並みに激怒していたのだ。
涙がどんどん溢れて、電車の中で大袈裟でなく床に水たまりを作りながら声を出してわんわん泣いた。わーんわーんと大きな声で、周りに人がいなくなるまで泣いた。悲しかったし苦しかったし怖かったし、そして確実に人生で1番怒っていた。憤っていた。
羨み、絶望、からの怒り
人は突然の不幸が襲ってきた際、羨み→絶望→怒りが順番にやってくることが分かった。
わたしはまだ何も成し遂げていないのだ。
そう、わたしは、まだ、何も、成し遂げて、いないのだ。
落とした視力を拾い集めるかのように、下を向きながら歩いた。
目は見えなくても洗濯はしちゃう
しかし、羨望と絶望と憤りを激しく脳内でループさせながらなんとか家に辿りついた私が最初にしたことは洗濯だった。日常なんてそんなものだ。
そういえば、この間壊れた洗濯機は治ったのだ。羨ましい。
そう、目は見えなくても洗濯はしちゃう。洗濯機を撫でながら、私の目も洗濯機の不調が治ったようにTOSHIBAのおっちゃんがホイホイと直してくれれば良いのにと思った。それはとても晴れた日で、左目が見えなくなるなんてそんなはずはないと思ってた。
目が見えなくなることに怯えて生きてきた
実を言えば「失明」という言葉は、私の人生につきまとっていて、小学生のときから、毎日意識して生きてきた。
幼い頃、あまりモノが見えていないことを気にした母親に連れられていった大きな病院の先生には「この後、この子の視力について楽観的なことは言えない」と伝えられていた。
いわゆる成長期には毎日どしん、どしんと視力が落ちて、本当にいつか、視力を失うんだと思っていた。心臓病の人がいつ来るか分からない発作を意識するように、覚悟はしていた。あぁ、来たか、と。ここまでよく持ったな、と。むしろ感謝の感情だ。
目が見えなくて不甲斐ない
そう、幼少時代から極度の弱視だった。(網膜裂孔の原因のほとんどは極度の近視であるらしい。)
メガネを変えても変えても光のスピードのように視力が落ちていき、目の前で起こることすべては残像のようであった。当時、メガネは決して安いものではなく、親が毎回高いお金を払っているのをみて、本当に不甲斐なく、申し訳なく、悲しい気持ちで心が一杯であった。
思春期の多感な私はお父さんとお母さんが稼いだお金が、かなり高額な私の目の治療代やメガネ代に取られるのを異常に気にしていた。毎日ごめんなさいと思っていた。
そういえば、何も見えていなかった
メガネやコンタクトが手に入るまで、幼少の頃は走るトラックに向けて猛ダッシュしたり、台所に何気なく置いてある包丁が刺さりそうになったり、命さえ失いそうになったことが少なからず、あった。
なーに、そうだ、もとから何も見えていなかったのだ。今までよく持った。左目よ。わたしには失うものなんてなにもない。
見たい、見たい、見たい
そうは言っても、私は「見るもの」がものすごく好きだ。映画もテレビも本もアートも全部「視覚に頼るもの」だ。今まで本をたくさん読んだのも、美術館に足繁く通ったのも、この日が来るのを無意識に予測してたからだとおもう。よくやったと、自分で自分の左目を褒めてあげたい。
左目は戦力外通告
毎日、起きたとき見えているか心配するのが怖いから、とりあえずもう左目はないものとする。バナナはおやつに入らないのと同様に、左目はもう手持ちの戦力にカウントしません。
好きなものだけよく見える
しかし、なぜだろうね、素晴らしいものを見たときだけ、天井を突き破るように突風が吹き、すべてがクリアになる瞬間があるんだよ。優れたアート作品や、面白いデザインや、好きな人を見つけた時にだけね。
近くも遠くもよく見えるんだよ。大ばば様の盲いた目にもナウシカが見えたようにね。
いうて、右目は普通に見える
ここまで絶望の左目について記述してきたが、右目は普通に見えている。弱視ではあるが、強めのコンタクトを入れると、いうて視力は1.0くらいある。
そして失ったと思った左目も、治療のおかげでなんとかギリギリ見えてきて、いまは画面が激しく割れたiPhoneの様な見え方を保っている。失った左目より、見えている右目と時を紡ごう。
母に伝えるのが怖かった
失明こわい。ほんとはこわい。
こわいこわい。
こわい。
こわい。
こわい。
しかし、1番こわかったのは「見えない」と感じた瞬間よりも、医者のファーストオピニオンを聞いた時でもなく、母親に電話して状況を伝えた時であった。心配させることが怖かった。
私の母は、(多分みんなのお母さんもそうかもしれないが)恐ろしく心配性な人だ。
あなたが自分が子供から目が見えなくなったと言われたらどんな気持ちだろう。悲しさにぞっとするだろう。わたしは母親を悲しませるのが何よりもこわい。
電話で「左目が見えない。」と告げると、冷静で、クリアで、覚悟をした人間の声で「いつかこの日が来ると思っていた」と返ってきた。
いつもはぼんやりとした母の突然のクリアさ
私の母親は私に輪をかけて性格や意識がぼんやりした人なのでクリアになる瞬間は、20年に1度ほどだ。19年と364日はオフモードで生きている。こんなクリアな意識の母は非常にレアだ。20年前、兄が腕を骨折した以来だ。母の意識は子どものピンチの瞬間にだけクリアになるのだ。
なぜか母を励ますことで自分が救われた
「お母さん大丈夫だから。デヴィッド・ボウイも、ジョニーデップも、タモリさんも、樹木希林さんも、片目見えてなかったんだってさ。みんな立派でしょ。私も大丈夫よ。」と、母に告げると「そっか、タモさんもなら、だいじょぶね。」と言ってて、母の呑気さと、ビッグ3の偉大さを改めて噛み締めた。
なぜか必死に母を励ますことがきっかけとなって、私自身が救われてしまった。
みんながこっそり大事な悩みを教えてくれる
左目の視力がなくなった話が人に伝わると、みんなが「自分の持っている辛さや大きな悩み」をこっそり教えてくれた。
「辛いことがあったんだけど、こうやって乗り越えたんだよ」ということを惜しげなく、私だけに、こっそりと。
辛い思いを経験した人は、他人にとても優しくできるのだと大きな気付きなった。目が見えていたら知らなかった世界だった。
目が見えなくて逆に見えてきたもの
左目が見えなくて見えるようになったことは、ほとんどの人が目には見えない辛さを抱えて生きているということ。誰一人として何にも悩みがない人なんていないということ。人はつらいことがあると、やさしく、つよく、たくましくなること。
左目が見えなくなった分、心の視界が良好になり、見えなかったものが、色々と見えてきた。
会社員を辞めてみた
その他にも色々な理由があったが、この左目喪失の経験も大きく作用して、私は10年勤めた会社を辞めた。こんなことになるなんて。まさに人生も小説も「キナリ」である。しかし振り切って「ファッションを仕事にしていこう。他のことはどうでもいい。」と思えるようになった大きな要員の一つであることには間違いない。
この件があってから、これからの人生は好きなものだけを見つめることに腹を決めた。余計なものを見ないことに決めると人は強くなる。視界が狭まるのに比例して私は人生の選択と集中を手に入れたのだ。
目で見えるものばかりがファッションだと思わない
私は学生時代、目が見えなくなる恐怖と向き合うために、盲学校のボランティア活動をしていた。生徒たちは目は見えないが、みんなおしゃれが大好きだ。
「○○さんの着ているTシャツは、今日の空の色と同じだよ。」「その服、お母さんとお揃いだね。丁寧に作られていて、きれいな服だね。」と声を掛けると、とても喜んでくれた。
目が見える人たちはファッションの「見た目」にばかり気を遣う。目が見えない人たちはその服が素敵だという理由やエピソードを知りたがる。
私はそこで「想いやエピソード」がどんなに人の心を強くするのか知ってしまった。
私は弱視だったからこそ、ファッションをここまで愛してきた。デザイナーたちが伝えてくれた表現の世界が友達だったのだ。
ファッションは鍵である
だから私は服を選ぶときに「見えないもの」をより大切にするのだ。私のスタイリングを受けてくださった方ならご存知だと思うが、私がスタイリングしたいのは服だけではない。服はあくまで、その人の心のあり様や生き様、ときには弱さやネガティブな感情を肯定する扉を開ける「鍵」だと思っている。
だからその「鍵」を使ってその人の人生「そのもの」を前向きにスタイリングすることを常に目指すのだ。
左目の視力を大幅に失ったら、さらに大きな世界を手に入れた
もう、好きなもの、美しいものしか見ない。そう決めたら人生が急に上手く行きだした。33歳、なんの後ろ盾もない私が会社を辞めてフリーランスになって始めた「自問自答ファッション通信」。スタイリストの仕事はおかげさまで順調で、気持ちの視野も大きく広がった。
私の左目はかなりの光を失ったが、何やら今まで生きていた世界とは違うワンダーランドを見つけたようだ。
これからも、自分が選んだ眩い世界で生きていきたいと願っている。
\ とっておきのお買い物術を動画で紹介しています🛍 /
\スタイリストあきやの全持ち物紹介しております👗/
\おすすめ記事はこちらから/
「スキ」していただけると私の愛用バッグがしゃべります👜押してみてね❣️↓
\ サポートとってもありがたいです☺️🙌/ いつでも楽しく自問自答できるように、これからも発信していきます〜〜〜見ててください〜〜〜👗🖊️💓