見出し画像

シリア新政権の指導者アフマド・シャルァとは何ものなのか?

 12月7日から8日、私は京都の同志社大学で開催された「アジア中東学会連合(AFMA)」の大会に出席していた。AFMAは、アジアにおける中東研究発展のための国際交流を目的に、日本、韓国、中国、モンゴルの4つ中東学会によって設立された連合体であり、大会にはこの4か国だけでなく、中東や西側諸国からも多数の研究者が集まっていた。7日夜にあった懇親会でもシリア情勢の話題で持ちきりであった。

 もちろん、参加者はシリアの専門家ばかりではないが、やはり、シリア情勢の急転直下には多くの人が驚いていた。だが、その時点では、シリア人も含め、皆、シリアはこれからどうなるのかなあ程度のレベルであった。なにしろ、アサド政権は、シリア内戦勃発から、13年間も生き延びてきたわけだ。それが、反体制派の進攻開始後わずか10日ほどで倒れてしまうとは大半の人が想像すらしていなかっただろう。

 シリアの専門家ではない筆者が、今回の事態を予想できなかったのは当然かもしれない。だが、今回の反体制派の進攻の中心人物であったアブー・ムハンマド・ジューラーニー(ジャウラーニーとも)については、2012年ごろからフォローしてきたので、情勢が少し落ち着いてきた、この段階で、彼について思うところも含めてまとめておくのは悪くないだろう。

 彼は本名をアフマド・フセイン・シャルァといい、1982年、サウジアラビアで働いていたシリア人の両親のもと、リヤードで生まれ、1989年に家族とともにシリアに帰国、ダマスカスのマッザ地区に住んだとされる。

 ゲリラ名の「ジューラーニー」は、ゴラン(正則アラビア語では「ジャウラーン」)高原出身者を意味する。彼の父方の祖父がゴラン高原に住んでいてことから、その名前をつけたといわれている。1967年の第3次中東戦争でイスラエルによってゴラン高原が占領されたため、祖父はゴラン高原から追放されたという。ちなみに、ゲリラ名に出身地や所縁のある地名を使うのは、いわゆるジハード主義者の特徴の一つでもある(たとえば、有名なジハード主義テロリスト、ザルカーウィーは「(ヨルダンの)ザルカー出身者」の謂い)。

 一方、ジューラーニーの父フセインはシリア南部ハウラーンに生まれた。シャルァ家は大地主で名家、預言者の家系だったとの説もあるが、ジューラーニー自身は、中流家庭だったと述べている。父フセインは、アラブ民族主義(ナセル主義)に染まり、高校時代に政治活動を行って逮捕された経験をもつ。そのため、シリアにいづらくなったため、イラクに渡り、バグダード大学を卒業した。その後、シリアに帰国するも、ふたたび逮捕されている。釈放後、ダルアーで英語教師をしたのち、石油会社に雇用され、さらに石油省の顧問となる。1973年にはシリア人民議会に立候補するも、落選してしまった。彼は熱烈なアラブ民族主義者ではあったが、バァス党員でなかったことが原因とされる。1979年にサウジアラビア石油省(サウジ国営石油会社のアラムコという説も)のエコノミストとなったほか、サウジアラビアのメディアでジャーナリストとしても活躍し、石油や経済に関して多数の本を出版した。ちなみに、ジューラーニーは、父とはイデオロギー的には違いがあるものの、尊敬していると述べている。さらにいうと、祖父も反仏レジスタンスに参加していたといわれ、ジューラーニーの血の気の多さはシャルァ家の血なのかもしれない。

 シリア帰国後のジューラーニーついて、一説には、アラビア語を教えていたとか、あるいは医学を学んでいたともいわれているが、よくわからない。パレスチナのインティファーダ(おそらく2000年にはじまった第2次インティファーダ)に衝撃を受け、モスクにかよって宗教の勉強をはじめたという。そして、2001年の9.11事件をきっかけに過激化していったとされる。

 2003年にイラク戦争がはじまる直前にイラクに渡り、その後、いったんシリアに帰国するも、イラクを再訪、ザルカーウィーの二大河の国のアルカイダ(アルカイダ・イラク支部)に参加する。インターネット上には、ジューラーニーがザルカーウィーとともに戦っていたとの記述がたくさん見られるが、ジューラーニー本人は、ザルカーウィーと会ったことを否定している。イラクではたびたび米軍に逮捕され、刑務所内ではもっぱら収監者のためのイデオロギー教育を担当しており、本人曰く、アルカイダ・イラク支部の残虐行為にはいっさい関わっていなかったという。

 釈放後、イラク・イスラーム国ISIの指導者、アブー・バクル・バグダーディー(イスラーム国ISの初代「カリフ」)と出会う。2011年の、いわゆる「アラブの春」でシリアで内乱が勃発すると、バグダーディーは、ジューラーニーらをシリアに派遣、シリアでアルカイダ・シリア支部を設置させる。これが2012年にヌスラ戦線Jabha al-Nuṣraとなる。当時の記録をあらためてみてみると、ヌスラはこの時点ですでにシリア各地に勢力を有していたようにも取れるが、実際のところはわからない。なお、米国はこの年、ヌスラをテロ組織に指定している。

 2013年にバグダーディーがISIとヌスラ戦線を合併させ、「イラクとシャームのイスラーム国ISIS」とすると宣言した。ジューラーニーは、それについてISI側から一切相談がなかったと不満を明らかにし、微妙な言い回しながら、ISIS傘下への合併を拒否し、アルカイダ本体の指導者だったアイマン・ザワーヒリーに忠誠を誓った。ただし、忠誠を誓ったからといって、従来からの活動に変化はないとも述べている。このあたりの動きをどう解釈するかは微妙であろう。むしろ、ISISでもなく、アルカイダ本体でもなく、独立した組織であることを企図した可能性も高いのではないだろうか。

 ちなみに、このとき、ザワーヒリーも、ISISを承認せず、ISIとヌスラ戦線はそれぞれ別個の組織としてそれぞれイラクとシリアで活動すべきとの裁定を下した。だが、結果的にはISIS側は、ザワーヒリーの裁定にしたがわなかった。ISISは、その後もISISとしてイラクとシリアで活動、事実上、アルカイダとは完全に分離、敵対することとなった。そして、おそらく、ヌスラ戦線から離反し、ISIS側につくものも少なくなかっただろう。

 なお、この年の7月、ジューラーニーは録音声明をインターネット上に公開した。これは、ヌスラ戦線初期のころの彼のイデオロギーをよく表しているといえる。ここで彼はまずイスラエルだけでなく、イラン(シーア派)やその手先としてのレバノンのヒズバッラーを激しく批判し、シャームの地にイスラームを取り戻すことを主張する。また、彼は、政党や議会選挙ではなく、イスラーム法(シャリーア)こそが重要であるとし、そのために「アッラーの道におけるジハード」が必要であると説く。この考えかたは、アルカイダ、さらにISI、ISIS、そしてISへと連なるサラフィー・ジハード主義と矛盾するものではない。

 ISISのバグダーディーは2014年、イラクのモスルで、カリフを自称し、カリフ国家「イスラーム国IS」の樹立を宣言した。ISはシリアにおいては、ラッカを中心に活動を活発化させていった。上述のとおり、その中心になっているのはおそらくヌスラのジューラーニーの決定を良しとせず、ISISに合流したものたちであろう。

 一方、ヌスラ戦線はISの攻勢に押され気味であったが、2016年、名称を「シャーム征服戦線」に改称した。そして、アルカイダ幹部に謝辞を表明するも、いかなる外部との関係もないと宣言した。これはアルカイダとの関係断絶と解釈されている。ただ、同戦線の目的としてイスラーム法の統治の確立、シリア解放とアサド体制の打倒、戦列の統合、合法的ジハードの保護継続、民衆の生活の安定・安全などを挙げている。

 2017年には、ヌールッディーン・ザンキー運動、ハック旅団、アンサールッディーン戦線、スンナ軍などとともに、いくつかの組織を糾合しながら「シャーム解放委員会 Hay’a Taḥrīr al-Shām(HTS)」*を設立した。

*アラビア語の「ハイアHay’a」には「機構」「組織」「委員会」「庁」「形式」などさまざまな意味があり、どう訳すべきか難しいが、ここでは「委員会」と訳した(日本では国家公安委員会という政府組織もあるので)。

 当初、指導者は元「シャーム自由人」の指導者だったアブー・ジャービル・シェイフだったが、2017年には彼が辞任し、ジューラーニーが後任となった。また、HTSは、他の反体制組織とともにシリア救国政府Ḥukūma al-Inqādh al-Sūrīyaを設置し、シリア北西部イドリブを中心に勢力を確保した。

 ちなみに、ジューラーニーが組織名に「シャーム」の語を冠したことは意味があるかもしれない。「シャーム」は、「大シリア」とか「歴史的シリア」とも訳されるように、シリア、パレスチナ(含イスラエル)、レバノン、ヨルダンなどを含む、いわゆる「レバント」地方を指すが、狭義では現代のシリアを意味する。組織名として「シャーム」を選んだことは、彼らのジハードがシリア(あるいはレバント)に限定されるということであり、グローバル・ジハードの看板をみずから外し、シリア・ローカルの組織となると宣言したといえる。ちょうど、ISISが組織名(国名)からイラクとシリアを外したのと正反対の動きとも解釈できよう。実際、HTS設立直後、アルカイダの指導者、アイマン・ザワーヒリーは、イスラーム共同体がマグリブから東トルキスタンまで同一の戦いを行っているのに、それをパキスタンやシリア、パレスチナのように、占領者の引いた国境内での戦いに押し込めようとするものがいると述べ、ジューラーニー批判とも解釈できる声明を出している。

 HTSとアルカイダの関係については表面上決別したことになっているが、実態としては関係が継続しているとの説も根強い。だが、HTS内部のアルカイダ支持派はHTSから離脱し、2018年に「フッラースッディーンḤurrās al-Dīn組織」を結成、それ以降、シリアでHTSやISと衝突を繰り返すようになっている。

 ただ、HTSは、相互に衝突を繰り返すシリア反体制のなかで、積極的に他の組織との連携を目指すという特色があった。そもそもHTS自体、多くの組織の連合体であった。また、シリア救国政府の一部としてイドリブの統治を行っていた。こうした経緯からか、ジューラーニーの態度に変化のようなものもみえてきた。ジハード主義組織の指導者たちの声明といえば、米国や十字軍、イラン(=シーア派)への攻撃を呼びかけるものばかりであったが、ジューラーニーの登場する動画や画像、声明には、農地を訪問したり、負傷者を見舞ったり、子どもたちを慰問したり、女性を含む、さまざまな階層の人びとと会見したりするものが多く現れるようになる(女性が髪の毛を隠しているのはもちろんだが)。こうしたソフト路線が本心からなのか、あるいは単なる戦術・戦略なのかは、筆者には判断しがたいが、これまでの著名なジハード主義イデオローグや軍事司令官とは異なっているように見えた。

 彼の講話からは宗教的な言説が薄まり、よりプラグマティックな方向性が垣間見えるようになり、外部への門戸が開かれているように感じられる。2021年2月には米公共放送PBSとの単独インタビューを行っており、これは米国への秋波とも取れる。

 2024年4月、ジューラーニーは「じきにアレッポやダマスカスで断食明け祭(イードルフィトル)を祝うことができるようになる」と述べた。なかなか意味深長な言葉であるが、仮にこれが今回の軍事攻勢を指すのであれば、この時点で作戦の大筋ができていたとも考えられる。その後の動きについては多くの報道があるので、省略するが、アサド政権崩壊後のジューラーニー自身の変化についても触れておこう。

 まず、アルカイダとの関係でいうと、ダマスカス攻略後、AQIM(イスラーム・マグリブのアルカイダ)、JNIM(イスラームとムスリムの支援団)、AQIS(インド亜大陸のアルカイダ)といったアルカイダ支部から、祝福の声明が出されている。ただし、それらの声明にはHTSやジューラーニーについては一切触れられていない。ちなみに、アルカイダを匿っているとされるアフガニスタンのターリバーン政権もアサド政権陥落で祝福の声明を出しているが、そこでは、ちゃんとHTSの名前を挙げている。余談だが、ターリバーンが2021年、カーブルを再占領したとき、HTSも、アフガニスタンに見習って、自分たちもシリア革命を進めたいといった趣旨の祝賀声明を発出した。さらにいうと、シリアのアサド政権とともにイラン率いる「抵抗の枢軸」の一員であったパレスチナのハマースも、アサド政権にもHTSにも言及せず、シリア国民に対して祝意を表明している。

 これだけでは、アルカイダとの関係について判断するのは困難だが、ISに関していうと、ISは一貫してHTSを非難しており、今回のアサド政権陥落に関しても、ISの機関誌「ナバァ」の論説では、HTSなど反体制勢力を国際社会に妥協したとか、飼いならされたなどと酷評している。

「ナバァ」誌472号、3ページ

 はっきりとした変化としは、ダマスカス陥落後、しばらくして、名前をジューラーニーに代わって、本名のアフマド・シャルァを公式に使用するようになったことが挙げられる。すでに闘士ではなく、政治家であるということだろう。また、それまで動画・静止画ではほとんど戦闘服を着用するのが一般的であったが、ここにきて、平服姿が目立つようになった。とくに12月22日にはスーツにネクタイという姿で登場し、少なくとも表面的にはソフトさを演出しているようだ。

 また、彼は、アフマド・シャルァ軍事作戦局総司令官として積極的に国内外の異質な要素と会見を行っている。国内でいえば、旧反体制諸派との会見だけでなく、サラフィー・ジハード主義者にとっては異端にも映るドルーズ派や敵対していたアサド政権のジャラーリー首相とも会見している。HTS幹部もアサド大統領の属していたアラウィー派の学者たちと会談、協議を行っている。

シャルァとドルーズ派関係者(なお、画像はすべて軍事作戦局のチャンネルより)

 国外でいうと、アサド政権陥落直前の12月6日、米CNNのインタビューを受けた。しかも、インタビュアーは、髪の毛こそ隠していたが、女性であった。また、陥落後にはロンドン発行のサウジアラビア系アラビア語日刊紙「シャルクルアウサト」とのインタビューを受けており、このときもインタビュアーは女性であった。また、短いがBBCの男性記者とも会見を行っている。

 さらに、英国、ドイツ、米国の外務省・国務省関係者がシリアを訪問し、シャルァと会見している。なお、いずれの使節にも女性が含まれており、筆者が確認できたかぎりでいうと、英国・ドイツの使節には、髪の毛を隠していない女性が含まれていた。

英国代表団との会見
ドイツ代表団との会見

 また、中東諸国でいうと、かねてから関係が深いとされてきたカタルの使節がいち早く使節を送っており、サウジアラビアも王宮府顧問がシャルァと会見を行った。さらに、トルコとヨルダンの外相もダマスカスを訪問している(ちなみに、トルコとヨルダン外相との会談では、シャルァはスーツにネクタイ姿であり、すべての動画・画像を調べたわけではないが、シャルァがネクタイをしているのを筆者ははじめて見た)。

トルコのフィダン外相との会談

 加えて、バハレーンはハマド国王名でシャルァにメッセージを送付、次回アラブ・サミットに新政権を招待することを示唆している。

バハレーン国王からのメッセージ

 これが内面、つまりイデオロギーの変化につながるのかは現時点では何ともいえないが、少なくともアラブ諸国はほぼ新政権を承認する方向で動いているといえる。旧アサド政権の関係者についても、拷問などに関与したものについては、裁判にかけ、処罰するといっているが、それ以外については、各地に設置された「調整センター」に登録するよう呼びかけている。いちおう全員逮捕するのではなく、暫定的な身分証明書を与えるとしている。

 懸念材料としてはクルドの処遇がある。すでに新政権の軍事作戦局名義のチャンネルでも、ときおり、クルド人主体でシリア東部を拠点とするシリア民主軍(QSD/SDF)との衝突も明らかにされている。いちおう、シャルァ自身は、クルドもシリアの一部だと主張しているが、新政権とトルコとの密接な関係をみると、それを鵜呑みにすることはできないだろう。

 少なくともシャルァ自身の動きから、新生シリアが国際社会からの承認を目指し、変わろうとしている様子がうかがえる。シリア再建のためには国際社会、とくに西側諸国や湾岸アラブ諸国の協力が不可欠であり、実際、こうした国ぐにが逸早くシャルァと接触したのは、シャルァの戦略が機能している顕れかもしれない。
 新政権がHTSのジハード主義的イデオロギーを放棄したかどうかは、今後の彼らの行動を見て判断しなければならない。だが、日本や欧米のメディアでは、新政権に対し懐疑的な意見が多い。とはいえ、イランやロシアには、アサドを復帰させようとする元気も見られないので、ほかに選択肢がなければ、Lesser Evilとしてでも新政権を受け入れざるをえないであろう。
 現時点でのシャルァを含む新政権幹部の発言や動きには、2012年のころと比較すれば、はるかにポジティブな要素が見られる。これがおかしな方向にいかないように、国際社会が新生シリアの動きをきちんと監視しつづけることが重要である。われわれがシリアに関心を失えば、新政権が暴走し、ジハード主義や専制政治がふたたび鎌首をもたげてくることになる。筆者個人としては、逆張りや期待の意味を込め、慎重ながらも楽観的でいたい。甘すぎるだろうか。

(保坂修司)

いいなと思ったら応援しよう!