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【対談】《人間以上》の社会正義を求めて――生田武志 × 井上太一〈後編〉

ジュンク堂書店難波店で行われた、野宿者支援活動の経験をもとに動物論『いのちへの礼儀』を著わした生田武志さんと、動物研究の最新作『現代思想からの動物論』(ディネシュ・J・ワディウェル著)を日本に紹介した翻訳家・井上太一さんのトークイベントの記録です。

開催日:2020年8月30日(日) 16:30~18:00 ジュンク堂書店難波店

司会進行:福嶋聡(ジュンク堂書店難波店店長)

前編はこちら

動物の品種改良と構築される障害

生田 『いのちへの礼儀』を書いていて驚いたことのひとつが、ダックスフントやブルドッグなどの生体改造の問題です。ブルドッグは、18世紀ごろ、イギリスで流行した「牛いじめ」という見世物で牛と闘う犬として開発された、見た目が筋肉質な普通の犬でした。だから「ブルドッグ(牛の犬)」という名前なんですね。ブルドッグの特徴を強調するとドッグショーの審査員に珍重されるので、人為的交配が繰り返され、今のようなブルドッグが作り出された。

 ただ、ブルドッグは頭が大きいため、母親の産道を通ることができず、出産はふつう、人の手による帝王切開になります。それに、鼻先が短いのでうまく呼吸できず、睡眠時無呼吸など酸素不足になりやすい上、体温調整も難しく、呼吸不全や心不全で若死しやすい。「もしもブルドッグが遺伝子組換えの産物だったなら、西欧世界全域で抗議デモが巻き起こっていたことだろう」と研究者が言っていますね。また、もともと猟犬だったダックスフントは胴体が長いためにヘルニアなどの関節疾患にかかりやすく、垂れ耳のためにダニの寄生や細菌による外耳炎になりやすくなっています。

 こうして人間が犬のかたちを意図的に変え、言葉は悪いですが「奇形」の動物を作りだしてきた(生田注 会場でこう発言したが、「奇形」という言葉はやはり問題があった)。最近では、犬にイソギンチャクの遺伝子を導入して、紫外線を当てると「赤く光るビーグル犬」を作り出しました。「犬を光らせて、どういう意味があるんだ?」と思いますが、ふりかえってみると、ブルドッグの鼻を低くしたり、ダックスフントの胴を長くしたりするのはどういう意味があったんでしょうか。結局、そういった動物の改造がペットに対していまもなお行われているわけです。

井上 動物を光らせるという発想でいうと、カラーラージグラスフィッシュというものがいます。グラスフィッシュという熱帯魚に人工的な色素を注入して売るということはずっとむかしから行われてきました。

 さきほど奇形というお話が出たのですが、こういう「奇形」や「障害」ということを話すときに、ほんとうに注意しておかなくてはならないのが、人間社会でいうところの「障害」は、かなりの部分が社会によって構築されているということです。「先天的な障害」があるというよりも、ある身体に適した秩序が社会的につくられていて、それに適合しない人たちの身体的特徴が「障害」と言われてきたという部分は、否めないと思います。

 洛北出版から出版された『荷を引く獣たち――動物の解放と障害者の解放』(今津有梨訳、2020年)という本があります。スナウラ・テイラーという方が書いた本なのですが、そこにも、社会モデルや批判的障害学といった分野のなかで最近よく言われている、障害は社会的な構築物だという議論があります。この点を無視してはいけない。

 たとえば、視覚障害に関して言えば、障害を持つ人々がプラットフォームから転落するという経験があるわけですが、それは目が見えている人に向けてのインフラづくりが引き起こしている問題です。あるいは、スロープのない施設や、引き戸・押戸・回転ドアなどさまざまな形態のドアを併置している施設というのは、特定の身体能力をもつ人だけが適合できるつくりになっている。そういう社会的インフラ自体が、俗にいうところの「健常者」の身体のかたちに合っていて、それに合わない人たちが「障害者」のレッテルを貼られていく。これは忘れてはならないところだと思います。

 ただ、それを踏まえてペットの話に戻ると、ペットは生存できない体に構築されていく。つまり社会環境をどのように変えていっても困難になるような――たとえば、呼吸困難をきたすような体です。あるいは、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルという犬種は、成長する過程で、体の成長に頭がい骨の成長が追いつかず、脳が締めつけられるという疾患を引き起こしてしまいます。こうなると、社会のインフラを変えることでは解決できない困難を体のなかに埋め込まれている、ということになります。

 この動物に負わされる困難と、社会的に構築される人間の障害とは、分けて論じる必要があると思います。ブロイラーもそうです。食用にされる鶏(ブロイラー)などは、従来の倍の速さで成長していく。すぐ肉にできる効率的な鶏だといわれているのですが、一方で、急成長ゆえに内蔵が圧迫されて心不全などを起こしてしまう、あるいは足の骨の成長が追いつかず、立てない体になったり骨折してしまったりする。そもそも長生きができない体につくられてしまっています。この言い方が適切かどうかはわかりませんが、「絶対的障害」とでもいうようなものを負わされている側面はあると思います。

生田 そう考えていると、やはり思うのは「人間はなんてひどいことを動物にしてきたのだろう」ということです。これを考え直さないと我々の存在ってなんなのだろうという話になってくると思います。そういう意味で人間と動物の関係について事実を知り、一から考え始めることが必要だと思うんです。

 ピーター・シンガーの問題についていうと、彼は動物の問題と障害者の問題を重ね合わせた議論をしています。生物としての「人間」(human)と、「理性的で自己意識のある存在」としての「人格」(person)を区別した上で、「人格」を持つチンパンジーを殺すことは「人格」ではない人間を殺すより「悪い」とした。「人間と人間以外の動物を比べることは、私にとって、人間は今より少ない配慮をもって扱われるべきだということではなく、動物の方が今より多くの配慮をもって扱われるべきであるという主張なのだ」(『実践の倫理』山内友三郎、塚崎智監訳、昭和堂、1999年)と。これは「人間中心主義」を動物を含む「人格中心主義」に置き換えた革命的な議論だったと思います。ただ、シンガーの議論には障害者を「健常者」や「感覚を持つ」動物に対して「劣る」存在と考えさせる面があって、それは、動物や人間の能力の「多様性」に対するシンガーの理解の狭さから来ているんだと思います。それでも、シンガーの議論が人間と動物の関係を考える上で大きなターニングポイントになったことは間違いない。

 しかし、日本ではシンガーの議論しか紹介されず、しかも批判ばかりされている。建設的な議論が進んでいないのですが、これについては井上さんの仕事でかなり改善されてきているように思います。

井上 『現代思想からの動物論』のなかで、ピーター・シンガーは障害が構築されたものだという面を無視して、障害を本質的なもの、所与のものと見てしまっていることを論じています。スナウラ・テイラーも引きながら議論しています。

人間と動物との新たな関係を

生田 さて、後半の問題としてあげたいのが、それでは人間と動物はどのような関係を結べるのかということです。いま言ったペットと人間の関係も多くの矛盾を抱えているのですが、矛盾であるがゆえに、悲惨な面もあれば希望もありえると思うんです。

 僕は30年あまり野宿者支援をしてきましたが、野宿の人たちと動物のかかわりにはいろいろな側面がありました。野宿者の月収はだいたい3万円ですが、犬や猫を何匹か飼っていて、収入の半分以上を犬や猫の食費に使っている人もいます。つまり、生活費の半分以上を犬や猫に費やしている。相対的には、どんな金持ちよりもペットに献身しています。なぜここまでするんだろうとよく思いました。

 考えてみると、野宿の人たちは国家・行政の社会保障から排除され、派遣切りなどがそうですが企業や資本から排除され、家族から排除されている人が多い。つまり国家・資本・家族から排除されると、「社会的排除」という言葉があるように生活困窮になりやすくなります。一方、野宿の人たちと一緒にいる犬や猫の多くは、もともと捨てられていた動物たちです。川沿いや公園でけっこう犬や猫が捨てられているんです。放っておくと死んでしまうけど、「かわいそうだ」と野宿の人が拾って育てていく。そして、社会から排除された者どうしが支え合って生きていく。そのなかで、お互いがいないとやっていけないという強い絆を感じるときがあります。

 レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』(高月園子訳、亜紀書房、定本2020年)という本があります。災害が起こって悲惨な状況になると、人間は自分のことで頭がいっぱいになって人のことなんて考えないと言われているけれど、意外とそうではない。とくにほんとうに深刻な災害になると、むしろ被災者どうしが手をつなぐ。それまで金持ちと貧乏人や、いがみあっていた隣人などが、「ここで助かった命なのだから、意味がある生き方をしなくては」と感じて、あらためて新たな視点から人と人との繫がりをつくることがあると言われています。

 これは野宿の現場でもよく言われることで、野宿の人どうしが公園でテント村をつくって、そこでは濃密な人間関係がよくできます。醤油の貸し借りに始まって、助け合わないとやっていけない環境があるので、なにかあったら声をかけあう、助けあうという姿勢がけっこうあります。野宿の人たちの犬や猫との関係も、もしかしたら「災害ユートピア」にちかいのかもしれません。それってもしかしたら、現代の社会――国家・家族・資本のありかた――とはちがう社会、オルタナティブを見せるひとつのきっかけではないかと思うことがあります。野宿というひとつの極限状態の動物と人間のかかわりから、もしかしたら動物と人間の新たなかかわりを見つけることができるのではないか。それは、阪神淡路大震災や東日本大震災の現場に行った時にも思いました。

井上 自分自身が逆境を経験することが、他者の経験する逆境への理解を生むことがある、ということでしょうか。

生田 ひとつは、なにもかも失われている状態になると、「家やお金が大事」といった価値観が吹っ飛んでしまう。あと、もしかしたら死んだかもしれない命なのに、いま助かっている、それはとても大事にしなくてはいけないと思うと、人生や他者との社会関係をまったくのゼロから見つめることになるんだと思います。

井上 そうしてみると、今回のパンデミックは「災害ユートピア」にならずに、むしろ動物支配を強化するような方向に向かってしまった。つまり、肉食産業は批判されることなく、動物の窮状があらたまることもない。むしろ、たとえば「現在の災害で心の癒しが欲しくありませんか」とペットを売り込んでいく。あるいは、学校閉鎖によって牛乳の供給がストップしてしまい、「酪農家の人たちがピンチだから、牛乳を買いましょう」というキャンペーンを農水省までが後押しする。私はこれを惨事便乗型資本主義(ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』幾島幸子、村上由見子訳、岩波書店、2011年)の典型だと思っているのですが、どうしてそういう違いが生まれてきたと思われますか。

生田 パンデミックでは、野宿の問題や震災被災とはちがって、被害を深刻に受けとめていないんじゃないでしょうか。罹ったところでインフルエンザ程度だろうと思っていることがあって、それほど社会観や死生観が揺れるところまで行かなかったような気がします。自分にとって深刻じゃない災害の場合、むしろ自分の生活を第一に守る意識が強くなるんじゃないでしょうか。

 「災害ユートピア」については、『いのちへの礼儀』の最後に取り上げたが「希望の牧場・ふくしま」です。もともと肉牛を育てていた牧場が福島第一原発の被ばく20km圏内にあって、牛たちはもろに被ばくしてしまった。牧場の人たちは、もともとその牛を肉にして売る予定だったけど、牛の経済的価値がゼロになってからも餌をあげてずっと生かし続けた。いまでも多くの牛たちが生きています。

 これについてはいろいろな意見があります。最初から肉にする予定の牛だったのに、なぜ被ばくしたからといって助けるのか、とか、ペットとして飼っているんですか、とか。でも、これも一種の「災害ユートピア」だったのではないだろうか。つまり、原発事故という極限的な災害のなかで、すべてを失った人間が、あらためて自分と対等な立場に立っている牛を発見して、おたがいに見つめ合ってしまった。自分たちという存在はなにか、牛たちは、命とはなにかということを考えたのではないかと思います。井上さんからは「希望の牧場」の取り上げ方について批判がありましたけれども、ぼくの考えはそういうところです。

井上 そのお話は説得力がありました。私が生田さんに寄せた批判というのは、「希望の牧場」では牛の商業価値がなくなったときにはじめて、この動物たちが生きものとして、生への望みをもつ一個の生命としてみられた、それはとても皮肉なことなのではないか、ということでした。そうではなく、私たちはすべてが滞りなく回っている経済体制のなかに組み込まれた動物たちに寄り添わなくてはならないのではないかと、生田さんに問題提起したのですが、それに対して生田さんがおっしゃっていたのが、さきほどのお話、つまり災害という異常事態を通してはじめて、裸の命と命が向き合ったというお話だったので、それは説得力があると感じました。

 パンデミックもそうですが、その他、動物たちを襲う災害は、これまで何度も繰り返されてきました。たとえば畜舎の火事などは人間にまったく被害が及ばないもので、まるで年間行事のように繰り返されています。感染爆発なども、人間に被害が及ばない範囲で何度も起きている。そういうニュースが流れるときに、素通りしてはいけないのではないか。豚コレラでも、日本の豚たちはどんどん殺されていった。そのときに「これはちがうのではないか」と、命に向き合うことが求められているのではないかと私は思います。
生田 もちろん井上さんの批判はよくわかりました。「希望の牧場」は皮肉なかたちで動物の命に向き合うことになったんですが、僕たちはそういう「皮肉なかたち」でしか、動物たちと出会えない世の中に生きているのかもしれないと思います。災害が起こらないと気がつかないような状態です。
井上 ジョン・サンボンマツという人が、私たちの社会に定着した動物産業のメカニズムは、あまりに巧妙に回っているので、そこになにか障害や異常事態が起こらないかぎり、自分たちはその存在に気づくことすらないと言っています。その意味では災害というのも気づきの機会を与える契機になっている。これはほんとうに皮肉なことだと思うのですが。

動物と文学――構造的暴力とは

生田 あと、動物と人間の関係において、ひとつの可能性、ありえる方向を指し示すのは文学だと思います。『いのちへの礼儀』で触れたのは、松浦理英子の『犬身』(朝日文庫、2020年)、木村友祐『野良ビトたちの燃え上がる肖像』(新潮社、2016年)、笙野頼子の『おはよう、水晶――おやすみ、水晶』(筑摩書房 2008年)などいくつかの作品です。『犬身』は、日本的な家族の公理系のなかに犬が入り込むことによって、まったくちがう公理系を作り出す、というものでした。『野良ビトたちの燃え上がる肖像』は野宿の主人公が猫を飼っているんですが、その野宿の人たちのなかに、DVにあった女性、難民、障害をもつ人たちがたくさんいる状態になっていて、そこから日本社会のオルタナティブを作り出すという試みが行われている。『おはよう、水晶――おやすみ、水晶』では、苦しみ続ける主人公と猫が支え合う中、小説で言う「霊虫」が「奇跡」の時空へ彼女たちを導いていく。松浦さんも木村さんも笙野さんもそれぞれ視点はちがうのですが、日本の社会や家族が抱える問題が描かれています。木村さんは国家の公理系の矛盾点を、動物と人間との関係という角度から新たに見つけ出し、別の可能性の道筋を探り出そうとされているように思います。その立場は我々に非常に示唆に富むものだと思います。こういったものが日本ではやっと出てきた、という気がします。

 海外でいうと、フローベールやメルヴィル以来、近代文学で動物は大きなテーマでした。カフカもそうですよね。けれど日本では、それがほとんどなかったかもしれない。

 ただ、よく考えてみると、二葉亭四迷は最後の長編小説『平凡』のなかで犬との関係を熱く語っている。死の直前のインタビューでは、「犬との関係で人生観が変わった」と言っています。ほんとうは『犬の哲学』を書きたいと思っていたけど、それはできなかった。だから小説のなかでちょっと書いたけど、それは本当は残念だったと話しているんですね。

 日本の近代文学はある意味では二葉亭四迷から始まったんですが、「犬の哲学」「動物の文学」は日本の近代文学に宿題として残されたんだと思います。ただ、残念ながら、小説家も、小林秀雄をはじめとする評論家も、ほとんど動物の問題について無関心でした。それから100年以上経って、ようやく松浦さんや笙野さん、木村さんなどが小説家の立場から動物と人間の新たな関係をつくり出そうとしている。これは我々が反応しなければならない視点だろうと思っています。

井上 オルタナティブな生き方、新しい人間動物関係を築くという点でいちばん貢献しているのは、わたしはビーガンだと思っています。ビーガンの人びとが、団体運動やネットなど様々な表現を通して、私たちがこれからどういう生き方をしていくべきかを発信している。私はこれがいちばん大事なのではないかと思っています。

 文学はまた新しい可能性を秘めたものだと思ってはいるのですが、日本文学史を紐解いてみると、果たして日本の文学者たちが動物問題と真剣に向き合ってきたのだろうかと疑問に感じるところがあります。むしろ文学の力を悪用してきたところもあるのではないか、と。

 これはあまり知られていないのですが、井上ひさしという作家は、女性への性暴力を行ってきただけではありません。「猫は高い所から落とされても受け身がとれる」と聞いたので、高所から猫を落としてみたら一瞬で死んだとか、昼寝をしている猫がいたからガソリンをかけてマッチで火をつけたら、大急ぎで駆けて行った、あの猫はいまごろ地球を一周している頃だろう、など、そういう猟奇的な動物虐待にふけった過去を『巷談辞典』(文藝春秋、1981年)というエッセイで嬉々として語っている。

 あるいは、詩人として尊敬されている谷川俊太郎は、『しんでくれた』(佼成出版社、2014年)という絵本を出しています。生田さんも引用されているのですが、「牛は死んでくれてハンバーグになった、ありがとう、自分は死んでやれない、なぜなら家族がいて悲しむから」ということを言う。日本で流布している「感謝」という呪文によって、動物殺しの罪悪を忘れ去るという発想を、文芸作品によって強化している側面があります。

 私は梁石日ほどの筆力をもって動物問題に切り込んできた作家を一人も知りません。そういう部分で文学者たちの責任はまだ果たされていない。おそらく二葉亭四迷の宿題はまだ終わっていないのではないかと思います。

生田 井上ひさしは、30メートルある火の見櫓の天辺から猫を落としたら「猫はにゃんともいわずに即死した」と書いてますね。彼はこうした虐待を茶化して新聞(「夕刊フジ」)に書いてるんです。1970年代の話ですが、当時、なんの問題にもならなかったらしい。日本社会が動物虐待を問題としていなかったということですね。

井上 しかも動物愛護団体への揶揄としてそれを書いています。

生田 そして、井上ひさしは結婚すると、妻へ激しい暴力を繰り返すようになった。妻の本に詳しいですが(西舘好子『修羅の棲む家』はまの出版、1998年)、動物虐待が女性への暴力へつながっていったんではないでしょうか。ただ、彼自身のこども時代の家族関係も複雑で、おそらく虐待を受けていた。それが動物や女性への虐待につながっていくという「暴力の連鎖」があったのかもしれません。もちろん、そのことで彼の暴力が許されるわけはないですが、暴力の連鎖を断つために、社会的な背景を検討すべきケースだと思います。井上ひさしは文学の世界で「偉い人」になったためか、いまだにあまり批判されませんが、それはしっかりと検討しないといけない。

井上 そういう人物がそういう面を看過されたままで、「偉大な劇作家」や「偉大な詩人」として文壇で崇められていることに、大きな問題があるのではないかと思います。さきほどのお話とあわせて、二つの構造的暴力というものがあります。ひとつは、井上ひさし自身も虐待を受けていたというバックグラウンドがあるかもしれない。そして、それとは別に、猟奇犯罪が作家の評価になんら影響してこなかったことです。これは構造的暴力の典型です。

 構造的暴力とはそもそもなんなのだという話ですね。アイリス・マリオン・ヤングという人の用語では「抑圧」ですが、それは直接的な暴力が振るわれる中で、その暴力を容認するような構造のことを指しています。動物への暴力は暴力とみなされない、その構図自体が暴力だということですね。それを構造的暴力あるいは抑圧という言い方をします。

生田 谷川俊太郎の『しんでくれた』については、僕も『いのちへの礼儀』で触れました。そもそも、食べるために人間が牛を殺したのに、「しんでくれた」はないだろうということです。「ありがとう」という言葉が繰り返されますが、動物の問題について「『ありがとう』と言えば済む」という考え方があるんじゃないでしょうか。「牛さん、豚さんに感謝して食べればいいんだよ」みたいな。

 これについては思い出したのが沖縄の米軍基地問題です。1995年に沖縄の米軍兵士による少女暴行事件があった後、僕の地元の岡山県議会が沖縄へ「感謝決議」をする動きがあったんです。野党側からの反発があって決議せず、陳情の趣旨だけを賛成多数で採択しました。翌年には、米上院で「日米安保条約に対して沖縄県民の貢献に感謝する」という内容の決議案が提出されています。その後も同様の動きがありましたが、すごく違和感がありました。つまり、自分のしていることをそのままにして責任をとらず感謝をいうのは、「これからもよろしくね」という相手に対する押し付けでしかない。「(基地を引き受けてくれて)ありがとう」は、現実には「これからも(基地を)よろしく」という押しつけなんです。そういう意味で、「ありがとう」は危ない言葉だなと思います。

井上 もともと感謝というのは相手が好意でしてくれたことに対してのお礼の想いです。沖縄はなにも好き好んで米軍基地を背負っているわけではなくて、あれは昭和天皇の判断であり、あの当時の日本に押し付けられたものでしかない。動物についていえば、死と苦しみは人間が動物に押し付けたものでしかないわけです。それを「感謝」というのはナンセンスである。

 ちなみに、「感謝」とセットで考えなくてはならないのが「謝罪」です。「ごめんね」というのは「もう二度としない」という思いを込めて言うことなので、「動物たち、ごめんなさい、これからも殺し続けるけど」というのは、全然反省になっていない。感謝もだめ、謝罪もだめ、これらはすべてナンセンスだということです。

生田 井上ひさしも谷川俊太郎も価値のある作品を書いているので全否定するつもりはないです。ただ、たとえば作家が障害者差別をしたらその責任をとらなくてはなりませんし、文学作品が差別を肯定したら、それは批判されるべきです。当たり前のことですよね。けれど、動物に対する暴力は問題とされてこなかった、それ自体が問題だろうと思います。

個人の実践と構造の改革、両方が必要

生田 さて、井上さんはビーガンという形で運動をすることが大事だろうと言っていて、僕もそう思うのですが、僕はビーガンになっていません。いまのところフレキシタリアンで、肉はなるべく減らそうとして、かつての10分の1以下には減らしています。肉も卵も牛乳も買っていません。でもやっぱり、外食がむずかしいんです。特に卵と牛乳なしで外食するのはほぼ不可能な感じです。

井上 出汁がいちばんむずかしくないですか。

生田 そうですね。海外と比べて、日本ではベジタリアン、ビーガン向けの外食店はわずかしかないです。ベジタリアン、ビーガンは一種の消費者運動として考えられると思いますが、外食をする場合、現実的になかなか困難です。

井上 そこが非常に悩ましいところで、ビーガンとして現在の動物搾取的な社会秩序に抵抗していくためには、ビーガニズムを実践できる環境が必要になります。ただ、それを進めていこうとなると、企業にビーガン商品の開発へのシフトを促すことが必要で、どうしても資本の秩序にのっとるやり方をとらざるをえない。ビーガン資本主義をめざすことになってしまうわけで、過渡的には必要だと思うのですが、果たしてそれでいいのか、というジレンマはつきまといます。

いま批判的動物研究の分野では、デビッド・ナイバート(『動物・人間・暴虐史――“飼い貶し”の大罪、世界紛争と資本主義』井上訳、新評論、2016年)やジョン・ソレンソン(『捏造されるエコテロリスト』井上訳、緑風出版、2017年)、ジョン・サンボンマツといった学者たちが、「資本主義と動物解放は両立しない」という考え方をとって、民主的な社会主義の構築という議論を進めています。いずれはそういう視点も必要になってくのだろうと思います。ビーガン資本主義であれ、浪費的な社会構造や南北問題が解決される見込みはおそらくないし、企業の成長のために商品開発などでどんどん拡張を続けていく、この終わりなき拡張、終わりなき市場開拓という構造が残ってしまうのであれば、多くの人間集団も他の動物たちも被害を受け続ける。そのことは、解放運動を進めていくうえで持っておかなければならない視点だと思います。

生田 僕も反貧困運動に長く関わっていますが、結局、資本主義を否定しなくてはいけないという議論は必ず出てきます。ただ、突き詰めるとそうかもしませんが、現実問題としては目の前の問題を解決するしかないわけです。

 その日常的にやり方の一つとして、肉食を減らす、止めるという方法がありえる。僕は麻婆豆腐が好きなんですが、最近は大豆の肉を買っています。あれは、動物性たんぱく質は入っているんですか。

井上 いえいえ、入っていないです。

生田 あれを炒めて、野菜や豆腐を入れて、麻婆豆腐のもとを入れる。それで十分おいしいです。そういう意味で、ちょっとした工夫でできることもある。

 ビーガンやベジタリアンはボイコットという点で消費者運動という面があります。ただ、工業畜産が資本を中心に社会的に行われてきた構造的暴力であるとすれば、制度的に解決する必要があるのではないかと思うんです。それについて、工業畜産税とペット産業税というものがありうるのではないかと考えました。つまり、工業畜産による製品やペット産業に課税して、その資金を動物の福祉(アニマル・ウェルフェア)などに変換することもできるのではないか。

井上 あるいはビーガン商品の開発に、ということもできますよね。

生田 ペット問題にしても畜産問題にしても、今後の政策プランなり、あるいは我々の日常でできることがあります。みんなでアイディアを出し合って、できることをひとつずつ実現していくことが、消耗せずに続けるうえで大事なのかなと思います。

井上 いま生田さんがおっしゃられたことはとても重要だと思います。動物解放論のなかで種差別が人びとの不合理な思考だというスタンスをとってしまうと、大事なのは人びとが合理的に行動することだという話になって、どうしても個人倫理の側面が強くなってしまいます。ただ、これはピーター・シンガーら自身の言葉にその問題を見抜くヒントが隠されていて、「種差別は人種差別や性差別と同様の構造をもっている」と。では、人種差別や性差別、その他には障害者差別、能力差別、階級差別など、それがどんなものかということを考えれば、これは個人の偏見という枠組みだけで語れるものではないのです。

 人種差別というのは完全に社会制度、法律や経済のなかにもふくまれている社会的なイデオロギーです。それはほかの差別でも同じです。個々人が動物のための生活刷新をする、その視点はもちろん大事ですし、それがなければ一貫した社会正義運動はできないと思うのですが、それだけで解決すると思ってしまうのも危うい。どこかで構造の変革――法制度や産業構造の改革をはかる必要があると思います。(終わり)

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略歴

生田武志(いくた・たけし)1964年6月生まれ。大学在学中から釜ヶ崎の日雇労働者・野宿者支援活動に関わる。2000年、群像新人文学賞評論部門優秀賞。野宿者ネットワーク代表。「フリーターズフリー」編集発行人。著書に『<野宿者襲撃>論』『釜ヶ崎から 貧困と野宿の日本』『いのちへの礼儀――国家・資本・家族の変容と動物たち』など。

井上太一(いのうえ・たいち)1984年生まれ。翻訳家。動物倫理の関連書籍を紹介することに従事し、国内外で動物利用をテーマとする講演活動も行なう。おもな訳書に『侵略者は誰か?』『ビーガンという生き方』『動物の権利入門』など。


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