強烈さや苛烈さ、とは。
2021.6.16 #本日の一枚
「強烈さ」
・苛烈な
・強固ではなく強烈さ
・柔軟性は強烈さでもある
という訳で、「強烈さ」「苛烈さ」について思いと考えを巡らせてみる。
私は自分でも「うわぁ、これは強烈だなぁ。」という気持ちや思考、語弊を恐れずに言えば、強烈でともすれば苛烈な感覚や思い、言葉を持つ時がある。しかもそれをアウトプットしたくて堪らなくなる。
それは人によっては「怖い!」と言われるもの。
うん、まあ、そうだろうなぁ…(遠い目 みたいな気持ちになる。だって自分でも狂気の沙汰とか猟奇的って見えるもん。
そういうものを長いこと無意識のうちに隠して生きてきたのだけど、今年の頭に
もう無理ー!ってなった。その蓋を開けてくれた人がいたのだ。
その人としては、そういう私の強烈さや苛烈さというものは恐怖の対象だし、見たくないものらしいので、私はまた隠そうとしてしまっていた。
で、今日、気付いた。
あ、無理じゃん。と。
結局のところ、表現や言葉の置き方、そういうのは人の個性だし、私は私の強烈さや苛烈さが決して嫌いではない。むしろ、そういうリリックをワーッと書いた後なんかは
「トチ狂ってんなーーー!」
と爆笑してしまうのだ。
そういう感性だって魅力として使いたいとすら思ってる。
どんな私も私なのだ。
蓋が開いたものはもう隠せない。
それを抑え込むことはもう地獄!と言って良い程の苦しみしかない。
ってことは…あれ?
”邪魔”じゃん。しかも、すこぶる。
と気付いてしまった。
彼の全てが好きだし、表沙汰になっていない(というか私が隠し続けたり、なんなら彼の耳にも入っていない)クズっぷりやマジで〇〇ス。と思う程のご都合的なところ、私の腹が煮え繰り返るような裏の顔すら、ぜーんぶ愛せてしまう。
だって、それらも全部、彼なのだ。
気が狂ってると自分でも思う。でも仕方ないじゃないか。それら全てまるっと”ソレ”なのだから。
だけど、私が私の表現を抑える要因になるのなら、
そりゃ無理よ。。。ってなっちゃうことに気付いてしまった。
えー、どうしたらいいんだろw?
自分の”全部愛せちゃう”強烈さも気付いたし
自分を押さえ込まなくちゃいけない時間に育ってしまうものは、強烈どころか苛烈になると気付いた。
(あと自分が性的ドSの要素を持っていることにも気付いてしまった。。。)
動けないことは私にとって地獄。
表現を止めることはマジで地獄。
アウトプットしたい。アウトプットしないと腐って死ぬ。
強烈さとは、振れ幅のデカさ故。
つまり、振れ幅を大きく取れる程の柔軟さがなければ、
強烈や苛烈にはなれない。
特性
って私は捉える。強烈な言葉の表現等も私は好きだ。
感情のコントロールが効かない訳じゃない。物事をあるがままに見て、そこにどんな感情を持つのかは、その人の選択だ。だからこそ「言葉を言葉のまま聞く」「観照する」力が要る。
誤解とかもそうだよね。誤解は生まれるものじゃなくて、主観によって産まれるものだと最近思うのだ。
彼を「自分を抑え込む理由」にするのはやめだ。
何を言いたいかというと、
私の強烈さを自分の魅力として捉え、自由自在に使うとしたら
私は何を選ぶかな?
って話。
”愛してやまない人”というのを、自分のストッパーにするのはもうやめよう
と決めたのでした。
さて、
What create more?
How can I change this?
How dose this get any better than this?
What else is possible?
行きたいところは勿論、
生きたいところ
も私はもう選べるの。