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DEAR FRIENDS←→from NEEEWME!→IT'S MY PARTY!BE HAPPY〜

昨夜は早々に寝落ちして、なんとなく目が覚めたら、あら、生まれた時間が近づいてる。どうせ目覚めたんだから少しnote書いちゃおうと、これ書いてます。

私が生まれたのは62年前の今日、朝方4:30。
場所は浅草の母の実家のあった近くの病院。
5歳年上の姉から聞いたら、いつ生まれるか分からないから朝方、こたつに入ってうとうとしてたら生まれたという連絡が来て、すごく嬉しかったことを覚えてるって教えてくれた。おぉ、そーなんだ。
随分大人になってから聞いた。それはこちらも嬉しい。

ほんとうは私と姉の間に男の子が生まれるはずだったけど、流産してしまったと、これも随分あとに断片的に母から聞いた。
この一番寒い時期、おぎゃぁ〜と生まれた私は末っ子。
母にしてみれば流産を乗り越えたあとの出産だったのかな。

母が2014年に、前年亡くなった父を追いかけるように亡くなってから8年。
さすがに1年ごとにお葬式を出し、親がふたりとも一気にいなくなってしまったことは当時の自分にとってショックで、すごい喪失感だった。
実質最後まで看取った姉も同様でした。

お葬式を終えて、お墓に納骨もすませて少し気持ちに余裕が出て父母のことを考えてたら、そういえば生前、肝心なことを聞いてなかったなぁとかなり後悔もした。あぁ、もっと対話していればよかった。
私はハタチ過ぎには家を出て、数年後には出戻ってたりしていたけど、バンドをやりだしてからはずっと仕事人間であまり両親と接してこなかった。

最初の結婚の時はかなり父が心配して、亡くなってから読んだ父の手書きの日記に、私にちょこちょこ会いに来てお小遣いを置いていったらしい。
そうだっけ、と、思い起こせば、当時は若くて、初めて外に出たので、毎日の生活で精一杯。そんな恩義的なこともすっ飛んでいた。
その後、再婚してからはバンドも軌道にのっていたし、お金に困ることもなかったし、父と母を温泉に連れていったり、ふたりでいろいろなところに行けるようにフォルクスワーゲンをプレゼントしたりしてた。
でも、なんだか聞きたいことは全然聞いてなかったなぁと後悔後に立たず。

孫が生まれてからは、それこそ、孫の可愛さにドップリで、よく遊びに来ていたけど、その時も私は子育てで精一杯で、久々に会った両親とじっくり話せたかというとしてないような。

自分が生まれた時のことや、父や母が過ごしてきた年月にはどんなことがあったのか、それぞれの家庭はどんな家庭で、どうやってふたりは出会って結婚して姉と私が生まれた家庭を築いたか。

両親が亡くなってから、急にいろいろ知りたくなり、ほとんど両家の親類も亡くなっているから、聞くこともできず、ある日、思い立って戸籍を辿ってみようと考えた。

父母、それぞれのルーツ。
実際、足を運んで、調べたり、辿れば辿るほど、調べる場所が遠くなり、戸籍を郵送で取り寄せたり。

父のルーツはわかりやすかった。長野出身。
父の祖父が長野県更科から戦前東京に移り、父は私の住んでいた新宿で生まれた。大正12年2月18日。生まれた年の9月1日には関東大震災があったから、どんな幼少期だったんだろう。もちろん本人に記憶はないだろうが。

昔は私が育った薬王寺町よりも少し離れた神楽坂の方に自宅があったと父から聞いた。
6人兄弟で上にはふたりの兄、下には妹がふたりに弟がひとり。
4つ違いのすぐ上の兄は父が生前何回も言っていたけどすごく優しいいい兄貴だったと聞いた。
だけど1945年、フィリピンのルソン島コレヒドールで戦死。25歳だった。
マニラ湾の入り口にあるルソン島では1941年と45年に日米の激戦が行われた。1945年没になっていたので相当ひどい状況だったのだろう。
父も4つ下でかなりあとから駆り出されたか、1945年、昭和19年1月に戦争に行った。21歳だと聞いた。
あまり戦争のことを語らない父だったが、やはりどんな状況でもハタチといえば青春真っ只中、その当時のことはかなりガツンと心にあったのだろう。
よく聞いた話が中国の水の都、蘇州に行った話と銃を持って真っ暗な草原を匍匐前進した時は相当怖かったという話。

私が戦争を実感して嫌なものと感じたのは学校で勉強した知識よりも、やはり父の体験を踏まえた話の影響が強いと思う。

父の軍服姿。良くも悪くも彼の青春時代。
戦争は嫌だけど、数々の思い出は
ずっと心にあったんだろうな。
この写真を家で飾ってた…

だけど、PERSONZの前身であるNOTHING PERSONALの初期の頃、ロックは反戦よね的に海外の曲に刺激されて作った「NO MORE」という曲を父がポツンとお前、こうゆう歌はどうかな的に否定するでもなく肯定するでもなく言っていたのを思い出す。

晩年は腰が曲がり好きな車も乗れず、急に年老いたけど、昔から父はアクティブで元気で、若く見えて、私を授かったのが遅かったけど、常に年より若いと言われていた。
結婚してからは、銀行、美容関係の営業、果ては趣味のカメラ屋など職を変えていたようだけど、私が物心ついてからは、一番上の兄の製本工場で運搬を担当していたので、車がなにより大好き。
幼い頃はいろいろなところにドライブして連れていってくれた。

ドライブ〜!

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