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DEAR FRIENDS_自叙伝1970年01_drop out

初公開写真を入れて2022年3月29日に再度投稿しました。

暗雲

60年代後半には小学校の中学年になり、私の運命も変化します。
時代は70年代へ。

それまでカラッと晴れ渡っていた1960年代の元気な理絵ちゃんの毎日に、少しずつモヤモヤとした暗雲が立ち込め始めます。

まぁ、自分にまったく将来像がなかったのもいけなかったのですが、10歳くらいの私にはまだまだ自分の未来ことなんて何も浮かばないのが現状。

世界は未だ夢の中…でも現実は成長と共に変わっていく。いわゆる悩める思春期にここから突入。

70年代頭から押し寄せたお受験の波が私と、そして愛情の裏返しとして優しい母をも飲み込んでゆくことになります。

5歳違いの姉は私とは性格も正反対。

3歳の七五三
7歳の七五三

姉は物静かで母の言いつけを守り優秀でしたから中学受験も志望校になんなく受かってクリア。母もそこは安心したでしょう。

ですが、妹の私は常に落ち着かない性格を引きずったまま、勉強は息苦しくなるばかり。
当時好きだった科目は体育と美術だけ。国語は読書や詩を自由に書くのは好きでしたが、ルーティン的な漢字書き取りなどは苦手。なによりも1番大嫌いだったのが算数。なんでこんな計算できないといけないの?みたいな屁理屈でいつも赤点。

学校の授業はとにかく退屈でつまらなかった。
学年があがるごとに夢の世界から現実の世界へ覚醒しなくちゃならない。

風変わりでやんちゃな理絵ちゃんはだんだん追い詰められていきます。

小学校の校庭で
シェ〜!

ピアノとモダンバレエ

受験の波が押し寄せる前の、小4時代の私の楽しみはバレエ。

お稽古事はピアノとモダンバレエを小学校低学年から習い始めました。
他には姉が習っていたお習字もトライしましたが、最初のお稽古体験にて、持ち前の落ち着きのなさでキョロキョロしていたら墨汁を前の席の人に飛ばしてしまい、お習字の先生から、妹さんはお習字には向かないかなぁ〜宣言をされアウト。

残った習い事はピアノとバレエ。

ピアノは小3から。最初は楽しかったけれど基礎練習の繰り返しに飽きてしまい徐々に情熱がしぼみました。それこそ泣きながらピアノォ〜!と懇願して浅草のおばあちゃんがアップライトピアノを買ってくれたのに数年後にはあえなく挫折。
言い訳としては先生が苦手!でした。いつも赤ペン片手の男の先生の教え方はまったく楽しくなかった。もちろん私の練習量も半端でまったくバイエルから進まないのがいけないのですが、だんだんグランドピアノを前にして先生の横に座るのが嫌になり、最後はもぉ〜行くの嫌だぁ〜状態。結局は高学年手前で受験のためにやめるんですけどね。

緊張の発表会


それでもピアノは3年間続けていたのね。
発表会も2回参加。
毎年4月1日にあった発表会では新しいドレスを買ってくれることが全てでした。ドレスなんて滅多に着ないものね。ワクワクしながら母が1年に一度だけ、この発表会のために伊勢丹の2階の輸入ドレスコーナーに連れて行ってくれることは嬉しくて胸躍りましたが、演奏力は伸びないまま3度目の発表会前にやめました。

一方、モダンバレエの方もほぼ同時期かな、小3から習い始めました。落ち着きがないんですから、踊るのは大、大、大好きでした。

通っていたバレエスクールは数年続けているとトゥシューズを履かせてくれるお稽古システムだったので、かなり頑張ったんですよ。身体も柔らかくて動かすのは得意だったし。バレエはその頃の自分に一番フィットしていました。

それにモダンバレエは発表会も華やか。

いろいろな踊りをやるので、その頃流行っていた歌謡曲のピンキーとキラーズの「恋の季節」とか、童謡「みかんの花咲く丘」とか、他には白鳥の湖的な衣装を着た「ガボット」、フワフワ衣装をたくさん着られる発表会はとにかく楽しかったし、バレエには常に音楽があり、リズムに合わせて身体を動かすことで清々しい気持ちになれました。

ピンキーとキラーズ 恋の季節


でも親は大変だったはず。今おとなになってわかりますがバレエの発表会はお金がかかる。このバレエスクールは出来たばかりで第一回目の発表会でしたからかなり散財したと思います。ありがとう、お母さん、ここは母のケアありきですから大感謝ですね。父はカメラ片手に記録係。写真を撮っているだけでお稽古事には口を出しませんでした。

しかし衣装がキラキラ〜大好き〜という感覚は今の自分にもつながっているなぁと納得。

バレエは白い練習用のトゥシューズの段階までは行けたのに、結局、憧れのピンクのサテンのトゥシューズは履けなかった。ほんとうはずっと続けていたかったのだけど中学受験で母からお稽古にストップコールがかかり断念。
大人の事情から言えば今までお稽古にかけていた費用を勉強にということだったんでしょう。そんな事情はわからず、大好きなバレエをやめさせられたことにはかなりダメージを受けました。泣いた。泣いた。泣いたね。

ガボット

そして高学年小5からはお受験一本。
暗黒時代の幕開けです。

母は少し塾に通わせたけど、成果があがらないので大学生の家庭教師をつけてスパルタ体制。教育に関しては母の世界一色でした。父はお稽古事と同様に口を出さなかった。

私も子どもを持ってわかりましたが、教育に関しては夫婦とはいえ一番考え方が異なるところです。価値観の相違が一番色濃く出るところ。

母はどんな考えで私立を受験させたいと思ったのでしょうか。ただ当時の社会状況を反映していたのでしょうか。もしかしたら母屋のいとこたちの優秀さに刺激されたのでしょうか。父が無関心だから自分がやらなくてはと思っていたのか…
今となっては母がいないのでわかりません。

私は自由で、創作活動が好きで、身体を動かすのが大好きなパーソナリティーでしたが、そこを活かすような進路ではなかったし、私の願望はないまま、母の考えた志望校が私に向けられ、もう、どうにも逃げられない状態。私にとっては勉強は窮屈で退屈。なんで受験をするのかもわからないままだったけれど、母は強し。逆らうことはなく母の方針に従いました。
結局、姉も通っていたような私立で大学までエスカレーターでいける中高一貫女子校の試験には落ちて公立に通うことになりました。

この中学から高校の写真は初公開で追加しました。
ここから先の有料ページの一番最後にて公開しましたぁ〜ひゃあ〜


中学は少し通学が遠くなって、いろいろな小学校が合体する集団となり1学年6クラス。小学生時代は3クラスでしたから、増えてる〜。

しかも中一と中三って心身ともに大きな差がありましたよね。先輩たちはやけに大人に見えた。部活もバレーボール部に入部するも、あまりの上下関係に馴染めず、怖い怖い女子の先輩に退部を告げてかなり睨まれました。
新しい環境に戸惑いながらの中途半端な中学時代。その頃から私は思春期の混沌さバリバリ状態で外交的な性格はなりを潜め、一気に内向的で人見知りも激しく学校嫌いの理絵ちゃんに変わりました。


絶望的な中2時代

中学校生活は途中から大嫌いになりました。中2の頃はまさに絶望的な感覚でほとんど学校に行かなくなり、今思えば中2病とも思えますが、中学受験の傷も癒えないまの受験モードです。また受験かとうんざり。受験のための学校生活はただ苦しく思えました。まったく楽しくない…

それに欠席については重ねて家庭の事情もありました。
母は私の受験の失敗で思い通りにならない私のことや、父との日々の諍いもあり息詰まっていたと思います。それと年齢的にも今なら同じ女性として理解できますが、うっすら更年期の症状もあったのではとも思います。
日々、母の感情の起伏が激しくなり、思春期で反抗的な私とは真っ向からぶつかり合います。

そして何より、同じ時期、母にとっては一番の心の支えであり頼りであった祖母が闘病の末に亡くなったことが痛手になり、一時期、母は精神不安定になりました。反抗期の私と母はぶつかり合いながらも、そのあとにガクンと落ち込む母をひとりにするわけにもいかず、心配で側にいて見守るため学校に行くことが出来なくなることもありました。

幼き日の母は私には常に優しく、眠る時は必ず母に抱きついて眠るほど大好きな母でしたから、この当時の母の変貌ぶりには私自身がかなり動揺しました。母を支えたいけれど、私もまた自分が感情のコントロールできないまま精神的にも不安定になるばかりでした。

天真爛漫だった10歳ぐらいまでと、そこから多感な15歳くらいまでの間にいろいろなことが一気に押し寄せて、元気で無邪気な理絵ちゃんは消え失せ、どんよりとした生活の中で変化して行きます。


追記:どんよりながらも中3になると、急にテニス同好会を立ち上げるというパワフルなこともしていたんです。卒業アルバムに写る私の笑顔。
顧問の先生にはかなりたてついてたんですけどね。
この時だけはなぜか部を作ることに積極的に動いてましたね。テニスは軟式だけどね、好きでした。

中学テニス部、小学6年バレボール部も初公開で追加しました。ここから先の有料ページの一番最後にて公開中!!!

再度追記:おっと!小学生時代にも6年生の時、突如バレーボール部に入ってますね〜この写真も最後のページでどーぞ〜


高校生活

高校は偏差値で行けるところを担任に言われるがままに受験して進学。
なにか特別夢があるわけでもなく、その学校で何をすべきかの目標も持てないままの私にとっては高校の選択はどうでもいいことでした。
今思えば私の性格上から考えれば一番に自由な校風を選ぶべきだったでしょう。でも結局、私は1学年14クラスのマンモス私立女子校に入学。


高校に行けば何か変わるかなと思っていただけの甘い考えの理絵ちゃんはそんなやる気のなさだから、新しい環境でもなじめませんでした。
そもそも、この学校は勉強云々以前に規則だらけで、まるで私には合わなかったのです。

毎朝、校門では門を狭めての服装チェック。持ち物も学校指定のものばかりで規定を満たしていないと指導が入ります。私も入学したての頃は反抗する意味もなかったし規則違反などもなく、ごく普通の生徒でした。

でも、ある日、生活指導の先生に呼び止められ、ただ単に血色の良かっただけの顔を見て、お前、頬紅をつけているだろうと指導され、つけていません、と言ったのにゴシゴシと布で頬を拭かれ、なにもつかないのに謝られることもなく、髪も元々赤っぽかったので染めているだろうとか何故か毎回生活指導で引っかかり、そんな態度の教師にそのうち反抗心がぬくぬくと盛り上がり、その後は学校に反抗するグループと仲良くなり、逆に生活指導の先生に楯突くという状態になりました。

結局、高校1年生の間にどんどんそんな閉鎖的な学校が大嫌いになり、半分は登校拒否となっていました。その間も中学三年の時に祖母を失った母の状態は落ち着かず、家庭も学校もうまくいかない状況で思春期と反抗心が混ざり合い私は身動きができなくなっていました。

1976年、入学から1年後、学校を辞めることを決心します。

欠席日数、生活指導、はめを外した問題も一度だけ起こし停学処分を背負っていた私には留年が決まりました。1年生の間に仲良くなった友人も学校を辞めてしまい、だからといって決定的な不良にもなりきれず、こんなジェイルみたいな場所でもう一年やり直すことは耐えられないと思いました。
今はいろいろな選択肢もありますが、1970年代の当時、高校を辞めることは敷かれたレールからはみ出すことを意味していました。
せめて高校くらいは…
高校だけは我慢して出ようよ.…
と、家族にも友人からも言われたけれど、この通っていた高校は私をただ理不尽に縛るだけのもので、早くそこから解放されたかった。
両親とも相談して退学することを決め、退学届を自分で出しました。


その後は都の就学相談に行き、編入できる高校を探しましたが、どこも定員数がいっぱいで編入できるのは1年先となるというので、自分で調べて神田駿河台のニコライ堂と同じ構内にある「ニコライ学院」という英語スクールに通いました。このスクールは少人数制で週2日の昼間の授業、ロシア語と英語コースがありましたが英語スクールの方が人気でした。なによりニコライ堂の建物が素敵で決めたようなものです。
その他はバイトをしたり、夏は軽井沢の叔母の喫茶店に住み込みで働いたりと、高校を辞めたあとは、まだ自分の将来は不透明。自分の選択が間違っていない確証は持てないまま自由な時間だけはたくさんある中、月日は過ぎて行きました。

軽井沢の叔母の店でバイト中の私

年が明け、同じ高校に通っていた幼なじみが、私の気分転換にとロックコンサートに誘ってくれました。

 

彼女は小学校4年の時に北海道から転校してきて、家も近所。小中高ずっと仲の良い友だちでした。中学の時は私の家の事情も知っていて毎朝家に迎えに来てくれたし、高校も一緒で同じ路線のバス通学でしたから、ほとんど登校拒否の私を励ますために毎朝迎えにきてくれて、ほんとうに心優しかった。少し大人びていてアイドルや洋楽邦楽もマニアックな音楽をたくさん知っていて、のちに彼女から、のちにいろいろなカルチャーを教えて貰い影響されていきます。

ロック!ロック!ロック!

今でも持っている来日公演パンフレットや
特集号


その彼女が誘ってくれたのが、初来日のエアロスミス公演。
77年の3月。場所は日本武道館。

私にとっては洋楽ロックなんて、まったく未知の世界。予備知識もないままに初めてロックコンサートを体現しました。

今では何度も語っているのでPERSONZのファンの方は、すでにご存知の方もいらっしゃると思いますが、武道館のほんとうに2階席の1番後ろの末席、これ以上後ろには席がない場所で観た光景があまりに遠過ぎて暗過ぎて、最初は何がなんだかわからなくて「ねぇ、ねぇ、あの中のどの人がエアロ・スミスさんなの?」と、となりの友人に尋ねたくらい、洋楽、特にロックには疎かったのです。

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