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ペルソナ5に全体主義と相対主義の対立構造を見る

スイッチで割引されていたペルソナ5をちまちま進めている。
このシリーズの作品を何一つ知らなかったときにゲームの企画募集に出した自分の企画と、目指すところは違えどもゲームシステムなどツラはほぼ丸被りだった。
企画を審査する側からしたらこれまんまペルソナのパクリやんと思われていたんだろうなあと今更ながらに気付き、力作だった割りにはどこも反応が微妙だったのはそういうわけかと、今更ながらに納得した。

というのは余談だが、内容については今やっているところがまだ序盤の方で、これからどう展開されていくか分からないが他人の心を盗む=勝手に変えてしまうことの罪が一つのテーマになっている。
自発的に心を入れ替えるのではなく、主人公一行が無理やり改心させてしまうことが許されるのかどうかという話だ。

現代の世論的にはこれは許されがたいことだと思う。全体主義が起こした歴史的課題を嫌というほど経験した多様性至上主義の現代において、誰かが誰かの考え方を変えること(言い方を変えると洗脳、教化、啓蒙など)はもはや確固としたタブーになっている。
新興宗教もマルチ商法もブラック企業も体育会系も、他人に何かの考え方を強制する行いは並べて悪っぽく怪しいし、社会から撤廃されていくべきものとして扱われる。
恐らく物語も他者の心を勝手に書き換えてしまう主人公たちが排除される流れに行くんじゃないかなあと勝手に予想。
この問題をどうやって主人公一行が乗り越えていくのかが見所・・・みたいな?
予想というか期待ではあるが。
青年漫画とかにありがちな根性論で乗り切って欲しくないなあとか思いつつ。

そもそもこのような洗脳タブー社会の現代において、新しい価値観の誕生はどのようにすれば正常なのか。
それは価値観の自己完結型表現と、それを外部から鑑賞する第三者という関係性でのみ生まれるのだろう。
価値観の押しつけ・ないしそれに近しいことは不適切であるわけだから、他人に伝える手段は「伝えず、ただ見せ、察してもらう」という婉曲的な方法しかない。
勧誘をしないことが最善の勧誘であり、啓蒙はダメだが、啓発ならばかろうじてセーフである。
ただ、ここでは鑑賞する第三者の積極的態度が必要不可欠で、だからこそ万人に普及する価値観は困難になる。

すべての価値観は相対化し、個別化し、善悪の感覚は希薄化する。
個別の悪は排除されずに蔓延り、全体的な善は排除される。
(何を善で、何を悪というのかも現代では不明瞭だが。)

だが、このような善悪のない時代であるからこそ何が善で何が悪かを議論するべき時代でもある。
それが健全に社会を次のステップに向かわせる唯一の手段であろう。

ペルソナ5はこういった社会の現状を写しだし、そこへのアンチテーゼのような話でもあると思う。
勧善懲悪のストーリーではあるが、典型的なそれとは違うのが主人公一行は相対主義に則った体制から拒絶されるということ。
物語中の敵は町を破壊する怪獣でも、人類を滅ぼしに来た宇宙人でも、世界を絶望と憎しみで支配しようとする魔王でもない。
体制側に立ち、社会構造を破壊するのではなく利用することで自らの欲だけを満たす小悪党である。
主人公たちが立ち向かわなければ周囲は皆受け入れ、表出しない事件である。
彼らはそのような社会悪に抗い、自分たちの正義を実現しようとする全体主義であり、同時に全体主義であることによって批判される。
意外と、ありそうでなかったような対立構造な気がするが、現実社会をモデルにこれを描いているのが偉い。
社会のテーゼに対して主人公たちのアンチテーゼが成り立っていて、現実に実践的である。
果たして現代において正義が樹立することはあり得るのか、ちまちま進めながら眺めていきたい。




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