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他人と共有可能なものが仕事で、できないのが趣味?

休みたいなあと思う。
自分だけの、好きなことができる時間が欲しいと思う。

そんな、好きでやっていることがなぜ仕事にならないのだろうか。

休みにやりたいことは何だろう。
例えば、ちょっと旅に出て何気ない風景を見てみたいと思う。
何となく絵を習ってみたいと思う。
好きなだけ気の向くままに映画を見たり、ゲームをしたいと思う。

そりゃあどれも何かを生み出しているわけでもなく、生産性なんてこれっぽっちもないのだが、エンタメという産業が猛烈に盛んなイマ、何かを好きになる力は仕事にできそうな気がする。
その業界に入って働いてもいいし。それの良さを伝える記事を書くライターとして稼ぐとか。

だが、休みに何となくやりたいことはそんな大それたものではない。
仕事にしないんですか?と実際尋ねると、謙遜しがちな日本人なんかは多くの人が多分こうやって言うと思う。

何が違うんだろうなあ、と考えてみると、恐らく他人に共有可能なくらい解像度が高いかどうか、だと思う。
例えば、僕は時間的な余裕ができたら、何となく散歩して何となくゆったり普段は目を向けない遠くの景色を見てみたい。
快晴でちょうどいいくらいの気温の日に公園か何かの野原で寝っ転がって雲の流れを見ながら風や日差しを感じたい。

だが、これの何が魅力的なのかを、僕は事細かに言語化できない。
例えば映像でこれを撮影したり、言葉でやっていることの状況説明はできても、それはただの事実の羅列であって、良さを共感してくれるのは、それを理解できる土壌が出来上がっている人だけだ。
というか僕はそんな土壌が出来上がっている人に伝えることすら出来ない。
自己満足を抜け出せないのが、趣味ということなんだろう。

だが、仕事にするならそんな自己満足ではいけない。
誰にでも伝わるように、きっちり説明できるものでないといけない。
その典型が例えばお金の計算。
お金の量という数字は誰にとっても一目瞭然、理解可能なものである。
だからこそ皆んながこぞって如何にして金を増やすか、ということに取り掛かる。
人の気持ちなんていう定量化できない理解しにくいものはどうやっても生産的かどうかすら分からない。
だから放ったらかしにして、そんな抽象的なことには手を触れずに一生をそのまま終えたりする。ごく普通の人生で、そんな人はごまんといる。

何だかそれは侘しいなあと思ったりする。
定量化できないものはいつまで経ってもマイノリティーの産業に限られるのは当然なんだろう。
起業家と役所と科学者は数字でしか物事を喋れない。
いつしか人の幸福度が数値化できるようになったことを考えると怖さもあるが、良くも悪くも社会は大きく変わることになるのだろう。

そうではなくて、数値でなくとも誰にでも伝わるものがあれば、もう少し生きやすい世の中になるかもしれない。
・・・なんて、抽象概念だけのSFを考えてみる。

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