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何者

僕は何者だろう。

「~学校を卒業して、~の仕事をして、肩書きは~~で、・・・」

それで僕は理解されるのだろうか。

知らない人に対して「誰?」と言う。
その人の名前を言ってみたり、学生時代の友人だよなんて言ってみたりすれば、なんとなくわかった気になるかもしれない。

少なくとも「誰?」と聞いた近くの知人が紹介してくれる内容なんてそれぐらいのものだと聞いた側も承知しているから、それでひとまずは納得する。

ひとまず肩書やら、立ち位置だとか、そういうことはひとまず置いておいて、自分を紹介するときに、他人に一番知ってほしいことは何だろうか。
何やら、近頃の世の中では肌の色やら性別やらその他なんやらで判別されないことが推奨されているらしいから、だったら本当に他人に知ってほしいことは何かについて、一から考えてみようではないか。

なんて言ってみてもとっさには何も出てこない。
なら幼稚園とか小学校で近くの人とどうやって友達になったかを思い出してみる。

あんまり記憶はないが、自己紹介という自己紹介なんてしただろうか。
そもそも、子どもには肩書きなんてない。当然役割も履歴もない。
大人がする、いわゆる「自己紹介」の名前の部分ぐらいしかない。

名前。まあ名前は大事だ。自分と隣の席の彼とを区別するために、僕には僕の名前がある。
例えば山田太郎とか、佐藤とか、花子とか、ジェームズとか、Michaelとか。
別に他人と区別できるなら0037なんて番号でもいい訳だ。
何年か前に日本で戸籍を持っている人にはマイナンバーという個人の番号が与えられたのだから、同姓同名がいて困るとか読み方が分かんないとかで困ることが多い「日本風の名前」なんて捨ててマイナンバーで一人ひとり区別していった方がいいかもしれない。
「一から考える」と、そうでしかない。
まあ、名前の尊厳だとか、日本の伝統だとか、そういう話をして「マイナンバー名前論」に反論するのは本筋を離れるから置いておくとして。

でも、名前は大事だといっても、自分一人で生きる分には名前はまあ、必要ない。
僕は一人暮らしだが、休日家にいるときに自分の名前を意識することなんて一度もない。
一人の人間にとっては名前はそれほど大きな問題ではない。
「僕は僕」であって、僕が「僕と他人」を区別する必要はない。
そう考えると、名前は自分のためではなくて、自分以外の他人のためにある。
僕がこの世界に一人だけならば、名前はいらない。

つまり僕が僕のことを何者か考えるときに、名前はそれほど重要ではなくて、これを読んでいる人には他人と区別するものためのものとして、ある程度は必要なものなのだろう。

ただ、ここまで読んでいる人なら、もはや名前なんて情報はなくても、「何やら屁理屈っぽい意味わかんなくて面倒くさい文章を書いているあのブログ」などと、既に他のブログと区別がついているはずだ。
だから、他人と区別するための情報としての「名前」は唯一無二のものではないらしい。
「通勤中に見る、名前は知らないけどいつもこの時間の電車に乗ってるあの人」、「あのアニメの主人公とこのアニメのヒロインの声をやってる人」、「多分いるはずのあの企業の社長」・・・
名前は知らなくても、顔、声、想像、その他多数のあらゆるところから、我々は自分以外の他人を区別している。


他人にとってすら必要不可欠でもないのなら、やはり名前が一番他人に知ってほしい情報というわけではない。
じゃあ何か、と考えたときに、自己同一性の話を思い出す。

僕が昨日も今日も明日も僕でいるこそが、僕を僕たらしめている根源なわけで、つまりは僕は僕として今日を生きるだけで、僕は僕という者なわけだ。

長々書いて少々面倒くさくなってきた結論みたいになっているが、書いていて新しい発見はなさそうなので早々に切り上げることにする。

とにかく、僕は僕なので、僕を名前とか仕事とか、経歴とか、そういうくだらないもので区別しないでほしい。
僕はもっと自分本位で生きたいので、他人のことを気遣って自己紹介することはしない。
とまあ、それだけのことなのだが、世の中の人が皆もっと自己中心的に生きてほしいという他人への気遣いを込めて(それによって僕が自己中心的に生きても誰からも批判されることのない世の中になってほしいという願いを込めて)、人の「名前」について、くだらないことを考えてみた。

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