戦争について

1ヵ月くらい続いている。

一日二日の攻撃で街が破壊され尽くす。

数時間の攻撃で人が住めなくなる。

一瞬の銃撃で人生が終わる。

こんな1ヵ月のことで多くの人の人生が大きく変わったりする。

なんだかんだのことは長いスパンで見れば解決するとか、何が起きても〇年後には笑い話にできるとか、日常を生きている人にはそうだが、そうではなくて、人生はやはり変化の連続で、常に不可逆で、何かが解決するなんてことはない。

どんな小さな出来事も破壊された建物と同じように完全な元の形には戻らないし、それによってどこかの可能性は断たれたりする。

だから命という最大の可能性を持ち続ける限りは一日一日のたった今のこの瞬間を大事に生きなくてはならない。この一瞬で我々の人生はいくらでも変わることができるのだから。

戦争についてどんなニュースも同じようにテレビ番組やニュースサイトが騒いだところで我々にとっては遠い国の関係のない出来事には変わりない。

月曜日には仕事に行くし、仕事が終わったらベッドで怠けるし、くだらないことで笑ったりするし、当事者じゃない我々にとってはどこかで戦争が起きても大震災が起きても、何が起ころうが日常が続く。

この状況は俯瞰的に見るのならば明らかに狂っているように見えるのだが、情報社会の弊害だろうか、どんなことがあろうと現代の人びとは慣れ過ぎてしまって、もはや当事者ではない限り情報が人を変えるということは極端に難しくなってしまった。

そういう意味でやはりコロナは特殊だ。目下、社会全体でコロナに対する意識は非常に高い。ほぼ全国民がマスクをつけて、ほとんどの店では消毒アルコールを置いている。交通事故で死ぬ確率よりも低いくらいの確率というが、それに全力を注いで対策したりする。

なんというか、コロナを矮小化するわけではないが、極端に例えるなら、クラスで今起きているいじめを横目に机の上の整理をし続けているような状況に見える。

事実を直視する、とにかく知ることが大事だと言うが、いじめへの凝視をどれだけ強めようがそれが倫理的な行動だとは一つも思えない。

私はそんなことを考えながらただただ凝視することしかできない自分がどうしようも非人道的な罪人だと思う。そして、そのうしろめたさを持っていることが最悪の上のせめてもの償いだと思う。悲惨な世の中で心の底から幸せをかみしめることはできない。

情報は罪の意識をばらまく。暗い話に目を向けたくない人はそんな罪の感覚を、知ることを通して感じてしまうのだろう。

個人的には知ったうえでそれを自分には関係ないと割り切ってしまうしたたかな大罪人にはなりたくない。それはウクライナで攻撃を受けている人々にとってはどちらも変わらない、取るに足らないゴミのような問題なのだが、私個人の精神世界(信仰世界)の秩序を保つためには非常に大事な問題として降りかかっている。

そんな私は平日朝の電車にいる眠け眼のサラリーマンが果たしていかようにしてこの問題を片付けているのか、毎日少し考える。

果たして、本当に、日常へ直接変化をきたす出来事でもない限りは、全ての情報はこの社会にとっては他人事なのだろうか。

常にクールなように振る舞い、陰湿でしたたかで、少しのプライドも持ち合わせていない。自分のことや周りのことには常にしっかりしている。でも傍から見れば人気者。個人的にはあまり友達にはなりたくない。

相対主義がはこびる世の中だから。そんなことしか言えないけど。正直あんまり好きになれない。大人になれないから。

いいなと思ったら応援しよう!