気持ちに原因はあるんだろうけどやっぱり分からない

気持ちに原因はないのだろうか。
僕はここ5、6年、気持ちに原因はあるというのをテーマの1つとしてきて、やっぱり人間は生理的感情を除けば気持ちの原因はあるんだと思う。

実際進撃の巨人の上記のシーンも、4巻のこのシーンでは本人にはまだ自覚されていなかっただけで、後になってクリスタの生まれ育った環境が原因で誰にでも好かれるいい人でいたいという欲望があったんだと分かる。
まあそれは、ストーリー上の都合で、伏線が張られて後になって答え合わせをしてくれるという定型パターンの演出だから、答えが用意されているだけなのかもしれない。
ただ、現実だって1つ1つの感情の源を丁寧に探っていけば最終的にはどこかにたどり着く場所があるはずだ。

これを証明するのは甚だ難しいと感じる毎日だが、原因がないと考える根拠の方が乏しい。
少なくとも原因があるパターンは創作でも現実でも確かに事例があるが、原因がないと言うのはただ単純に熟考してないだけかもしれない。
もちろんそれは言語で単純に説明可能であることの方が少ないだろうが。

そもそも何にだって原因はあると思った方が面白い。
SFみたいなものだろうか。理解できないものの可能性を探る行為は好奇心が湧く、、、みたいな。

はたまた、面白いとかではなくて合理的に感情を解決したいだけかもしれない。
性格にまで染み付いてしまった感情の原因を探ることで、自分にとって本当に大事だと思っていることやコンプレックスになっていることに気づく。
そうしてその原因となる根本にアプローチすれば心理的課題も解決される。
そうやって心理的に成熟していくための効率化、、、みたいな。

ということで、、、やはり僕は言語化が上手ではないのではっきりこれだと断定することはできないのだが、そこには確実に何かしらがある。
それが複雑で認識できないからといって、「ない」わけではない。
「ない」と「ある」では大違いだ。
感情に原因がないのだったら、何とつまらない人生か。
人間の記憶は必要がなくなる。ただその場その場でランダムに感情を発現させるロボット的な何かになるかもしれない。
感情には原因があるからこそ、性格や癖や人となりというものができる。

進撃の巨人然り、創作物のストーリーは感情の原因があることを前提にして作られる。
何十巻分の背景が積み上げられるから、ただ大虐殺するエレンにも共感する人がいる。
現実だってこれと同じプロセスを使えば、どんな人でも理解できないか、と試行錯誤はしてみるものの、中々人は自分を大っぴらにしてくれなかったり、時間がなかったりで難しいだけ、、、と今日もそんなことを思っている。


そんなこんなでここまで書いてきて、一方で進撃の巨人のラストにも描かれている考慮すべき問題がある。
「道」でアルミンがジークと生きる意味について語り合うシーン。
アルミンは砂に埋もれた葉を見つけて、エレンとミカサと3人でかけっこするために生まれたんじゃないかと言う。
また、家で本を読んでいる時やリスが木の実を食べた瞬間、市場を歩いている瞬間にも同じことを感じる。
ジークはただ意味もなく投げて捕ってを繰り返すキャッチボールに生きる意味を感じる。

僕が一個前の記事に書いた、「他人と共有できない個人的な楽しみ」とか、西田幾多郎のかけがえのなさという概念もこういう話かもしれない。
意味もなくただずっとキャッチボールをしたいと思うなど、これ系の理由を探すのは非常に難しい。
それが生きる喜びなんだ!とか、人間賛美なんだ!とか、簡単にはぐらかすことはできるが、明確に答えろと言われると中々難しい。
だから劇中にもそういう説明が出てこないんだと思うんだけど。

人間の本質は遊びだというホモルーデンスの立場からすると、アルミンやジークが言うことは遊びになるのだろうか。
ただこの文脈からも中々説明しにくい。人間がなぜ遊ぶのか結局分からないし。たとえ進化論的に分かったところで面白くないし。

・・・ということでなんでそんなことするのかなあと考えながら、やっぱり僕はダラダラゲームをやっている。

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