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本の風景「波多町(なみだまち)」  内海隆一郎(1992年)


バラのまちづくり



ミスしまだ

島田市の「ばらの丘公園」は、1989年「ふるさと創生事業」によって、1992年に開園した。島田市の花がバラであったことや、当時、島田市のバラの生産高が県内でも一、二位の生産高を誇っていたことから「バラのまちづくり」がスタートしたのだった。約500種一万本のバラは、満開の季節には鮮やかな色彩とともに芳醇な香りを漂わせている。中でも当時、新種として農林水産大臣賞を受けた「ミスしまだ」は、鮮やかな赤いバラで、今も当園のシンボルである。バラには色や種類によって花言葉があり、赤いバラは「愛情」「情熱」「美」である。

波多町


波多町

 主人公の「私」は、ある日、「波多町・美しい町づくりの会」から、「バラのある生活」という内容の講演を依頼される。私は童話作家の傍らバラ栽培にはまり、『あなたも楽しめるバラづくり』という本を出版していた。波多町は、京浜の港湾地帯の新しい町らしく、地図にも載っていなかった。私は出版社から大量の自著を背負わされ、波多町に向かった。電車の終点の、運河のたった一つの橋を渡ったその先に波多町はあった。町には嫌なにおいが漂い、冷たい霧が立ち込めていた。二月なのに街路樹のはなみずきの花は満開だったが、それは造花だった。講演が終ると、「委員会」は町民全員の総意として、私がこの町に留まり、バラの町づくりに協力することを強要した。驚いて帰ろうとする私と委員会がもみ合った際、一人が転げ落ちて死んでしまう。委員会は、私が町にとどまることを条件に、この殺人をもみ消すとの取引を迫ってきた。私は最初からターゲットだった。私の亡き父は、かつてバラ園を経営し、『エメラルド』というエメラルド色のバラを作った。そのバラはつるバラで、波多町の土壌にも育つと、委員会は踏んでいた。波多町はごみの埋立地に造成された町だった。委員会の名称はいつの間にか「エメラルド委員会」となっていた。私は腹を決める。私は町民すべてに私の本を買わせ、バラ作りを講義した。そして、何人かのリーダーたちに自宅の『エメラルド』を取りに行かせ、防波堤の脇の空き地に『エメラルド』を植える実習をした。驚いたことに、町のほとんどの住民が参加した。誰もが真剣だった。私には監視人がついていたが、人々はみな優しく、私自身も町に馴染んでいった。その後、さらに多くの『エメラルド』を手に入れるため、父のバラ園を引き継いだ一番弟子を、メンバーと共に訪ねる。大量の『エメラルド』を積んだトラックが出発した際、私は密かに離れ、愛する妻と子供たちのいる自宅に向かう。が、私が自宅の窓辺に見たものは・・・。

内海隆一郎


内海隆一郎氏

 内海隆一郎(1937~2015年)は、大学卒業後出版社に勤務、1970年発表の『蟹の町』が芥川賞候補となった。以来、十数年筆を執らなかったが、その後、友人の勧めで書いた『人びとの忘れ物』が好評となり、以降、『人びとの街角』『人びとの坂道』など「人びと」シリーズとして定着した。市井の人々のささやかな日常が温かく描かれ、ふれあいの機微、心模様が町の風景と共に語られる。小説『人びとの光景』(1992年)、『風の渡る町』(同年)、『鮭を観に』(1993年)、『百面相』(1995年)が、それぞれ、その年の直木賞候補となった。彼は、また、童話作家でもあった。「童話」では『みんなの木かげ』『みどりの風』などが、「木」のシリーズとして発表されている。「人びと」シリーズと同様に、町の子供たちが街角や森の木々の木霊とふれあい、自分たちの「まち」を愛し、守っていく様が描かれる。

エンターテインメント


小説『波多町』は「エンターテインメント分野での秀作」と筒井康隆は語る(『本の森の狩人』)。「波多町」という地図にもない町に、不条理に拘束された主人公がやがて反撃に転ずる、そしてまた新たな展開、そうした構成は、読者に期待感を与え、同時に、「波多町」の「人びと」の町づくりに賭ける笑いと涙が伝わってくる。この時代、つまり小説が発表された1992年、世はまさに地方創生の真っただ中にあって、そうした時代のエピソードが巧みに盛り込まれている。
なお、この時、バラ業界では「青いバラ」開発競争に各社がしのぎを削っていた。そして、2004年にサントリーがその完成を宣言し、2008年に認定された。『ブルーローズアプローズ(喝采)』と名付けられ、花言葉は「奇跡」「夢がかなう」とされた。なお、『エメラルド』色のバラは未だ世に出ていない。

(地域情報誌cocogane 2024年7月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)


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