僕の『時間の風景』
アウシュビッツ
「死だった。大人達がひそひそ囁き交わしていた秘密はセックスについてではなく、死についてだった。ルート・クリューガーは記す。彼女は1942年10歳の時、オーストリアの自宅からナチ強制収容所に連行された。アウシュビッツをはじめ三カ所の収容所に移され、脱走に成功したのは13歳の時だった。終戦後アメリカに渡り、ホロコーストについて問い続け、十数年の後、アウシュビッツを訪れる。そこで彼女が見たものは「修復をほどこした過去の恐怖の残りのような展示」「感じやすい同時代人は、歴史の良心に命じられるまま写真を撮らないではいられない」。更に「広島」についても「激しい惨禍の記念の地が、花と寺院の公園になっている。平和と人間性をテーマに詩的ないましめの言葉…そうした慰撫の工作のまっただなかに囲いこまれて、世界でもっとも醜悪な廃墟が立つ」。彼女は叫ぶ。「ここは亡霊の敷地、神の敷地ではない」と。(『生き続ける』)
時景
現代のアウシュビッツそして広島を旅した彼女は、その場からひたすら逃げようとする。しかしこの場からは逃げられても、「時間からは逃れられない」。こうして彼女は呟く。「強制収容所は『場所』(オルト)だろうか?」と。そして、場景(オルトシャフト)、風土(ランドシャフト)、風景(ランドスケープ)、海景(シースケープ)に対して、「時景(ツァィトシャフト)が無くてはならない」と語る。
これが「時間の風景」である。
僕にはルート・クリューガーのような凄斬な記憶はない。しかし眼前に存在する空間だけが風景ではなく、かつて過ぎ去った時間の空間には、また、別の風景があったのではないか、という強い思いがあった。
消えた時間
たとえば、幕末の日々、龍馬を斬ったとされる今井信郎は、維新後、刑を終え牧之原開拓団としてこの地に至る。その後、初倉村村長をはじめ学校建設など多くの働きを為してこの地で没する。彼は開墾と地方行政の仕事の傍ら、キリスト教の洗礼を受け、熱心な伝道活動を展開した。しかし、今井のキリスト教を語るものはなく、「気の迷い」だったとも記される。(同誌第1号参照)
大井川の川越人足たちを率いて牧之原を開墾した仲田源蔵もまたカトリックの洗礼を受けている。サムライたちと人足たちの争いを治め、明治政府とかけあい、人足達の生活を死守した彼は、晩年自宅内の御御堂に籠り、祈りの日々を過ごしたと伝えられる。(同誌第67号参照)
作詞家、藤田まさと(牧之原市)は哲学者「生田長江」に師事していた。生田はハンセン病に苦しみながらも日本の近代的な自由主義に与していた。藤田まさとの作詞「麦と兵隊」(昭和13年)は、満州の兵たちを鼓舞した。だが、その五番「鉄と炎焔(ほのお)の狂う中/独り平和の色染める」と反戦の思いを綴った。しかし、五番は歌われることはなかった。(同誌第42号参照)
僕は郷土史の英雄譚には違和感を覚える。彼らのその時の、その時間の「こころの闇」、その風景は何だったのか。
大井川流域に生きた人々、通り過ぎた人々に思いを馳せた。
物語の風景
また、流域の「伝説、民話、童話」こそ多くの時間の風景があった。川根本町のダイダラボッチは、太陽を避け、夜中に行動する。遠い昔、流域には強大な権力者がいて、ヤマトタケルと戦い敗れたのではないか。
かつて貴族たちの広大な荘園だった吉田には陰陽師、安倍晴明の屋敷があって、そこに住んでいたと伝わる。今は小さな祠が残る。伝説の多くの人物たちが、流域の伝説とも重なる。
更には、流域の妖怪たち、動物たち、狐や狸、馬や鹿、それぞれが皆、自分自身の風景を有している。彼らの物語には「愛」が隠れている。争いや飢饉、おびただしい死、飢えと苦しみの日々の中に、ささやかな喜びが物語となって伝わる。そして人々は常に、「愛する人」を求めて語り継ぐ。
祈りの風景
そして、変わらない風景がある。それは祈りの風景である。道端の地蔵様や道祖神、森や川端の巨木や岩石、気の遠くなる程の時間の中で、人々は手を合わせ、祈り続けてきた。何を祈るのか。すべてを祈り、すべてを信じ、すべてに感謝する。それは僕にとって大きな感動だった。
先の「G7広島サミット」において、各国首脳が広島平和記念資料館訪問の後、言葉を書き残した。その中で、イタリアのメロー二首相は「本日少し立ち止まり、祈りをささげましょう。闇を凌駕するものは何もない…」と記した。彼女はそこに「時間の風景」を見た。
こうして、大井川流域の「時間の風景」は100回を終えた。この8年超の時間は、自身の人生の中で、最も恵まれ、かつ充実した日々であった。
この間、コロナやロシアによるウクライナへの侵略戦争など、かつては想像もしなかった多くの事件が頻発し、人間の文明の脆弱さが浮き彫りになってきた。歴史のこの時間の中で、未来の「時間の風景」はどう映るのか。
この問いと共に、僕の「時間の風景」は形を変える。
(筆・大石重範)
(地域情報誌cocogane 2023年9月号掲載)
[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)
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