感謝は敬意とセットにしたい。
私は50代だが、幸いなことにこれまでずっと健康には恵まれたきた。
私が大好きな俳優の西田敏行氏は、生前、
「健康が一番大事な財産、お金が無くても健康でさえいればそれでいい」
となにかの番組で熱弁されていたのだが、
その姿がとても印象に残り、
「そうか、健康ってそれほどまでに有難いものなんだ」
と感じ、それ以来さらに健康であることに感謝するようになったのだ。
しかし、本日ふと「感謝だけでは何か物足りない」と思ったのだ。
健康であることに対して、ありがたいと思うこと。
それ自体は健康の価値を認める上で必要不可欠な心の動きだと思うのだが、
なんだかそれだけで終わらせてはいけないような、
肝心の何かが足りないような違和感を覚えたのだ。
そして、この違和感は、
これまでの人間関係の中でも感じたことがあったようにも思えた。
感謝ということに関しての違和感。それは何だろうか?
またしても、脳の検索機能は大したもので、
この問いに対して検索結果を表示してくれたのである。
それは昔、少しだけ付き合いのあった知人のことだ。
その人は、「「ありがとう」とか「感謝してます」は幸せと成功を
引き寄せる魔法の言葉だ」という考えを持ち、
自分の感情とは裏腹に「感謝してます」と会う人会う人に伝えまくって
いたのだが、それに反してその人はやたらと周囲とトラブルを起こし、
常に怒りや欲求不満を抱えていたのだ。
たしかに、感謝というのは大事な概念だと思うのだが、
なぜこの人はあまり幸せそうではなかったのだろうか?
そして、なぜ魔法の言葉を多用していた割に周囲の人とのトラブルが
絶えなかったのだろうか?
私が感じたその人の印象としては、
プライドがとても高く、自分が話したいことだけを話し、
相手のことに関心をあまり払おうとしなかったように思われた。
つまり相手に敬意を払うことは苦手であったようなのだ。
だからこそ、「感謝という魔法の言葉」でごまかしていたのかもしれない。
もしかしたら、敬意を払わないことへの免罪符的な用途で
「感謝」を利用していたのかもしれない。
そういえば、以前職場で受講した接遇研修の中で
「メラビアンの法則」というのを教わったことがある。
これは、相手が受け取るメッセージの大半は、
表情や態度といた非言語的な要素で構成されている。
というものだ。
つまり、この知人の例でいうと、
言葉では「感謝してます」と言っているのだが、
心では相手のことをどこか見下しているため、
その人と接した人は、「感謝されている」と感じるよりも
「見下されている」と感じてしまうのだろう。
となると、その人は他者を見下すプライドの高さを何とかしない限り、
「感謝してます」は、余計にうさん臭い響きを発することになるのだ。
つまり、私が彼に対して感じていた違和感の正体とは、
「敬意の伴わない感謝の虚しさ、あざとさ」だったのだ。
感謝の言葉というのは、処世術としてとても便利だ。
しかし、だからこそ敬意の伴わない感謝は、
相手に無意識に違和感を抱かせるだろう。
だからこそ、単なる感謝の言葉だけでは不十分なのだということを
その人との関係の中で学んだことを思い出したのだ。
話を冒頭部分に戻そう。
私は健康の有難さと健康に対する感謝だけでは物足りないと
感じたことを述べたが、同種の違和感として
私の知人の例を踏まえることで、
健康という現象に対しても感謝だけではなく、
敬意を払う必要があるということに気付くことができたのだ。
ではどうやって健康という身體の現象に対して
敬意を払えるようになるか?
そのためには、身體の生命維持活動が人智を越えた精妙なハタラキの
為せる技だということを理解すればいいのではないか。
そういえば、最近「はたらく細胞」というコミックが原作の映画が
上映されているが、体内の膨大な数の細胞たちが、懸命にそれぞれに
役割を果たしつつ、必死になって病原菌等から、健康を守ってくれる
様子が表現されている。
自分の体内の細胞を擬人化することで、
その有難さと尊さを実感できる工夫がなされている点も素晴らしい。
ほかにも、「Power of ten」Powers of Ten with Japanese translation
という動画など、
自分の體の中にも宇宙のような神秘さがあることを、
教えてくれる教材はいくらでもありそうだ。
要は、当たり前だと思っていた健康状態というものの背景には、
ありえないくらいの神秘的な膨大なハタラキがあることを知り、
それを日頃から意識していれば、
自ずと敬意を払えるようになるのではないかと思っている。
そんなことを言っている私自身、
ついつい食べ過ぎて、内臓に負担をかけてしまうことがあるのだが、
だからこそ、言葉だけでなく、敬意を伴った感謝を払っていきたいと思う。
そして、自分の體のハタラキ以外の事柄に対しても、
つい自分が無意識に言葉だけの感謝を唱えそうになった時には
そこに敬意も込められているのかを自問していきたい。