「他者批判=自分の棚上げ」という観測結果を得る。~自分OSのバージョンアップ~
先日、古い知人と会って話をする機会があった。
彼らは、今までの私にとっては、
「心のザワツキの発生源」であったが、
ここ数か月で起こった「自分OS革命」によって、
「他人は自分の写し鏡である」ことや、
「ザワツキこそ、経験値稼ぎのチャンス」という認識を
自分の中に強くインストールすることができ、
彼らと接しなければならないという「正念場」においても
その認識をいかんなく発揮することができたのだ。
この古い知人は、それなりに世間的な地位や収入があるものの、
根っ子には強い劣等感と、自己承認欲求があり、
それ故に他者へのリスペクトが足りない「唯我独尊」的な振る舞いを
しがちである。
そんな彼らに対して私は強い違和感や怒りと共に心がざわついていたのだ。
しかし、「心のザワツキこそ経験値稼ぎのチャンス」という認識により、
「この場面からどれだけ多くの経験値を稼げるのだろう」
というハンター気分になり、
さらには、「他人は写し鏡」であるという認識により、
「程度の差こそあれ、彼らは私の中の醜い部分を増幅して
分かり易く映し出してくれた写像ではないか」と思えたのだ。
そのようにして、その場に臨む私自身も、
「彼らから心をざわつかされる被害者」ではなく、
「ザワツキを単なる現象として捉え観測し、
貴重なデータを収集する観測者」と位置づけて、
平穏さを保ちやすいコンディションにセッティング。
これらのセットアップによって、彼らと心乱さずに会話できたのだ。
そのお陰で、彼らが好む「他者批判」というのは、
「じゃあ、そういうあなたはどうなんですか?その批判要素と皆無なのですか?」と突っ込み要素満載な内容だということが分かったのだ。
つまり、「自分のことを棚にあげる」という有様をまざまざと見せられたのだ。
しかし、そもそも「他人は自分の合わせ鏡」という認識に立てば、
それはまさに自分自身の姿だということになる。
古い知人が見せてくれた「他者批判=自分の棚上げ」という現象について、
自分にも思い当たるフシがあるだろう。と突き付けられたのだ。
そうなると、もはや、彼らの姿から心がざわつく場合ではなくなってくる。
私は、彼らを長年、心の中でひどく批判してきたが、
じゃあ、そんな私自身はどうだったのか?
その批判要素をあなた自身は全くやらかしてなかったのか?
と。
そう自問すると、私にも全く同じような黒歴史が次から次へと出てきたのだ。
まさにブーメラン。恥ずかしさで耳の端まで真っ赤になるくらいだ。
「他者批判=自分の棚上げ」という観測結果は、
まるで、平行に向い合せた鏡の中に映る、永遠に続く入れ子のようだ。
確かに、「他者は自分の写し鏡」なのだから、そうなることにも納得。
「他人のふり見て我が身を直せ」という格言は本当にその通りだ。
自分が他者批判をしたくなった時、
まずは深呼吸し「じゃあ自分はどうなんだ?」と自問すること。
でもどうしても愚痴をいいたくなった時は、「王様の耳はロバの耳!」
と叫ぶための壺を用意し、そこに思い切りぶちまければいい。
この「壺」というのは、100均で買えるメモ手帳でもいいし、
PC内のワードファイルでもいい。
くれぐれも、「自分の合わせ鏡」に対して直接ぶつけない
ようにしたいものだ。
それにしても、ここ数か月で色んな素晴らしい出会いに恵まれているが、
その知人達の御蔭で、「自分OS」をこれまでにないスピードでバージョンアップすることができたと思う。だから心から感謝申し上げたい。