自己肯定感と「きちんと受け取る力」
プレゼントの受け取り方と自己肯定感との間には、
密接な関係があるような気がする。
私達夫婦が行きつけの食堂には、顔なじみの店員さんがいるのだが、
先日、その彼が誕生日を迎えたという話を聴いたので、
日ごろの感謝とお礼の気持ちからケーキを買って持っていった。
そして、会計時の帰り際、渡すタイミングを伺っている時に、
その彼が私が手に持つケーキの箱を観て、
冗談っぽく受け取る動作をして「ありがとうございます!」
と言ってきたのだ。
だから、本当はきちんと渡したかったのだが、
否定する理由もないのでそのまま渡したところ、
彼は「えっ、冗談のつもりだったのに!」という感じで
呆気にとられたかのように固まってしまったのだ。
こちらとしては、会計を済ませた帰り際に
さりげなく渡してサプライズを演出したかったのだが、
彼の冗談っぽい振舞いによって拍子抜けしたのと、
彼はまさかそれが本当に自分へのプレゼントだったとは思わなかったことで
混乱したことから、何ら盛り上がることなく、私達はそのまま帰ることと
なったのだ。
そして、1週間後、私が再び来店した時には、
一緒に働く彼のお母さんが丁寧にお礼を言ってくれたのだが、
彼はその傍でまるで他人事のようにお母さんの様子を見ており、
自分がケーキをもらったことはすっかり忘れている様子だった。
この様子をみて、もしかしたら、彼は今までプレゼントを
きちんと受け取ったことがないのかもしれないと思った。
また、もしきちんとプレゼントを受け取ってないならば、
自分の中では実際に受け取ってないことと同じになってしまうのでは
ないだろうか、と感じたのだ。
実は彼は、一度に複数の作業が発生すると
パニックに陥ってしまうそうで、
それまでかなり苦しんできたそうだ。
彼は心根がとてもやさしく素朴な性格なので話していて楽しいのだが、時々、かれは自分を蔑むような発言をすることがある。
「自分は将来このまま孤独に死んでいく」ということも
口癖のように彼は言う。
たしかに、それまでの苦労を思い出せば悲観的になる気持ちも
分からないでもないが、両親が健在で、體は健康だし、
ハタラク場所があり、彼と話すのを楽しみにして来店する常連客が
いるという状況は、決して孤独ではないはずだ。
にも拘わらず、それが口癖になっている彼はまるで、
自分には幸せになる資格がないとでも思っているかのようだ。
本来得られている幸せな事に目を向けず、
自分の辛かった経験にフォーカスし、
そちらの経験則を援用して将来の自分の姿を予言する姿をみて、
彼はかなり自己肯定感が低いのかもしれないと思った。
自己肯定感が低いから、すでに得られている幸せなことよりも
将来の不安要素の方に意識が向いてしまうのかもしれない。
だからあの時、自分の誕生を祝福するために渡されたケーキも、
きちんと受け取れなかったのではなかろうか。
一緒に楽しく盛り上がれなかった残念な感じはあったのだが、
プレゼントをきちんと受け取るということは、
自己肯定感と繋がっているかもしれないと気付けたことは、
私が彼からもらえたプレゼントなのかもしれない。
この彼の姿を自分の合わせ鏡として観ることで、
自分自身いろいろと気付かされることが多い。
私はこれまで、すでにプレゼントされてきたことを
有難くきちんと受け取ってきただろうか?
私も昔はかなり自己肯定感が低く、
「自分なんて・・・」という思考に支配されていたからだ。
だから、人から褒められることがあっても、
それを茶化したり、
「なにか下心があるのではないか」と勘繰ったりして、
素直に受け取ろうとしなかったのだ。
その根底には、
「自分の幸せは他者からの評価によってしか得られない」
という思い込みがあり、しかも自分が他者から認められるには、
まだまだその資格がないという思い込んでもいたのだ。
だから私もまた同様に自己肯定感が低く、
「自分にはそれを受け取る資格などない」
と勝手にセルフジャッジ&ラベリングして、
プレゼントの受け取り拒否をしてきたのだと思う。
私と彼は別の人生を歩んでいる他人ではあるものの、
大事なことを伝えてくれる合わせ鏡でもあると考えることで、
このケーキの一件は彼の問題ではなく、
実は自分を顧みるための大事なメッセージ
だったのだと肚落ちできたのだ。
彼は、自分が他者よりも知的な能力が低いというコンプレックス
を持っているが故に、「孤独に死んでいく」と思い込んでいるだろうが、
実は能力の高低とは別の、「自分は幸せを受け取る資格がある」と思える
自己肯定感の方がはるかに重要なのではなかろうか。
そういえば、自己肯定感がすこぶる高い人物といえば、
私は乙武洋匡氏を真っ先に思い浮かべる。
彼の言動からは、自分が四肢が不自由であることへの悲壮感などは
感じられず、果敢に人生にチャレンジしている様子が感じ取れるし、
その生きざまがとても魅力的である。
彼は著書の中で、彼が生まれた時に、その姿を観た母親の第一声が
「かわいい!」だったと述べている。
この第一声が彼の人生を強く決定づけたそうだが、
確かにそれが彼の自己肯定感の根底を形成しているのではないかと
私も強く思っている。
五体不満足であることは想像を絶する不便さだと思う。
にも拘わらずあの自己肯定感の高さ。
それは、社会的評価基準と自己肯定感は必ずしも比例しないことを示す
一つの証明ではなかろうか。
「姿形や能力はどうであれ、自分は幸せになる資格がある。」
そう思うか否かは、完全に本人の自由であり、
そこにエビデンスなど求めたりしてはいけない。
自己肯定感はいくらでも高く設定すればいい。
自己肯定感を自分で高くするということは、
自分のご機嫌は他人に取らせるのではなく、
自給自足するというスタンスを内包している。
だからこそ、自己肯定感と自己顕示欲とは
反比例するものだと考えている。
そして、他人からどう思われようと、
根拠なく自己肯定感を高く持ち、
堂々と幸せを享受していく姿は、
たまらなく魅力的ではないか。
人生そうやって生きていけばそれでいいと思う。