綿菓子理論
ルビンの壺というのがある。
これは誰しも見覚えのあるものだが、
向き合った顔と壺のどちらにも見える図である。
このルビンの壺と同様、
事実をどうみるかによって、その人の中で真実が形成される。
この図を見て例えば壺にしか見えない人というのは、
「顔」と「壺」という事実の中から
「壺しかない」という「真実」を構築したのだと言えよう。
このように、人間は事実全てを満遍なく認識することはできない
のではないか。
この世では、ルビンの壺以上に色んな見方ができる出来事が
常に起こっているため、数多ある事実情報を全て認識し、
それを踏まえて中立妥当な真実を導き出すことは不可能なのかもしれない。
中立妥当だと思える真実というのは、
あくまでも多数決によって決められるものに過ぎないのかも。
ある国の文化風習では美徳とされている振る舞いでも、
別のある国ではタブーとされることは枚挙にいとまがない。
それも事実と真実は異なることを示しているだろう。
だとすれば、事実と真実を一致させることは
諦めた方がいいのかもしれない。
少なくとも、自分が真実だと認識したことを
他者にも同様の認識を持たせそうになった時には、
ルビンの壺を思い出した方が良さそうだ。
昔読んだ、「アイの物語」というSF小説の中で、
介護施設で働くアンドロイドが、
「人類は全員認知症である」と結論付けた部分を読んで、
衝撃と共に納得してしまったことがあったが、
自分が認識している世界観というのは、
あくまでも偏った情報処理に基づいたものである。
そういう意味では、全ての事象をあますことなく客観的に捉えられる
スーパーAIのような存在から見れば、全人類は程度の差こそあれ認知症
だと結論づけられても仕方がないだろう。
なので、「人類は全員認知症である」という認識は
心のどこかで持っておいた方が良さそうだとその時思ったものだ。
そんな経験を踏まえて、自分なりに世界を切り取る上で
役立つのではないかと考えている理論があるが、
それが「綿菓子理論」である。
どうせ自分の世界認識は偏っている。
ならば、自分が愉しめるような世界観を構築していけばいい。
そこで登場するのが、「綿菓子を作る」という見立てである。
ところで、綿菓子はどうやって作るものであるか?
それは、熱によって溶かされた砂糖が遠心力によって
霧状に分散したものを棒によって絡めとって作る。
世界には様々な現象が事実として漂っている。
自分が認識できるのは、自分のこれまでの経験と知見の範囲内でしかない。
それはまるで、
「自分の経験と知見」=「綿菓子の棒」
「漂っている現象(事実)」=「霧状に分散した綿菓子の材料」
と見立てると自分なりに合点がいく。
どうせ自分は「自分の真実レベル」でしか世界を認識できないのなら、
せいぜい「美味しい綿菓子」を作ることに努めればいいのではないか。
この世界の面白いところは、綿菓子の材料は様々あり、
美味しい材料もあれば、苦い材料もある。
それらはすべて霧状になって雲霧しているので、
自分で棒をこしらえて、
好きな材料を自由に絡めとっていけばいいだけだ。
作れる綿菓子の大きさは棒の大きさに比例する。
面白いことに、
棒を持たない人、つまようじサイズの棒しかない人、
竹刀サイズの棒を持っている人など、
綿菓子づくりに臨む人は様々である。
また、どうゆう味の綿菓子を作るかというのも自由であるが、
本当は美味しい綿菓子を作りたいのに、
わざわざまずい材料しかない場所に出向いて、
まずい綿菓子ばかりをせっせと作っている人も案外多そうだ。
綿菓子の棒は、自分の経験と知見によって構成される。
なので、大きな綿菓子を作りたくば、経験と知見を高めていけばいい。
また、「自分はどんな味の綿菓子を欲しているのか」は、
自分自身と向き合うことで把握することができる。
そして、「欲する味の材料はどこにあるのか」については、
実際に行動して移動することが必要だろう。
このように、人生を綿菓子づくりに見立てると、
不完全な人間なりにも、満足のいく愉しい人生が
クリエイトできそうである。
私はこの「綿菓子理論」を色々と応用しているのだが、
「どこで、どんな材料を絡めとるか」という目的意識で「棒」を作って
みるだけでも、自ずと材料を絡めとりやすくなることを実感している。
これは「脳の検索機能」によるものだと思うが、
綿菓子を作れば作るほど、棒の作り方も上達し、
作れる棒も大きくなっていくので、
作れる綿菓子も大きくなっていくだろう。
そういえば、現在毎日行っている「感謝ゲーム」も
日常の中に雲霧している感謝の対象を絡めとっていく
綿菓子づくりの一つだと言えるだろう。
私がやっていきたいアートとは、
「綿菓子づくり」なんだと思う。
私にとって人生とは、
「この世に漂う材料を如何に自分の認識力で面白おかしく捉えていけるかというゲーム」だと見立てているからである。
なので綿菓子の棒は、「注意の向け方と解釈の仕方」とも言い換えられる。
それ次第で、目の前にある材料に気付けたり気付けなかったりするからである。
綿菓子のように、
「空中にただよう材料を棒で絡めとるだけ」だと考えれば、
いかに絡めとるのに適した棒を持っているかがカギではないか。
私は、以前から、「あり方」とは、「注意の向け方と解釈の仕方」
のことであり、生まれつきの資質や才能よりも、「あり方」という
意識的にデザイン可能な部分の方が大事なんだと考えているが、
「人生とは綿菓子づくりである」という見立てによって、
この考えをさらに自分の中で肚に落とし込むことができたことが嬉しい。
そして、他者と比べて自分の才能の有無や地位の高低に一喜一憂するヒマがあるくらいならば、愉快なあり方で美味しい綿菓子づくりにリソースを注入していこうと自分に言い聴かせているし、周囲にも提案したい。
あのアンドロイドが指摘したように人類が認知症だとするならば、
正しい、間違っているという是非論争で争い傷つけあうことよりも、
エビデンスなど問わないアートを愉しんでいくことの方が
遥かに平和的だし、認知症を改善する上でも効果があるのではないか
と思っている。