嫌いな人は好きな世界へのガイド
私はほんの4か月前までは、
ある知人への憎悪で心が乱れていた。
彼らの価値観、他者への思いやりのなさ、傲慢さなど
様々な面が憎悪の対象であったのだが、
自分のこうした思いは自分にとっては足かせにしかならないこと
に気付き、このモヤモヤと折り合いをつける決心をしたのだ。
そのお陰か、それ以降は不思議と素晴らしい出会いに次々と恵まれて、
さらには、「ご機嫌の自給自足」というテーマまで着想できて、
現在のご機嫌な生活に至っている。
僅か4か月間での自分の内的な世界の変化っぷりには、
自分でも驚いているのだが、
そのお陰で、その知人への
憎悪の感情の9割は解消されたのだ。
残り1割は「ああいう感覚で生きてたら、貧しくなるよね」と
自分への戒めのために残している感じであり、その感覚は別に悪くない。
彼らへの憎悪の感情がうごめいていたあの頃は、
仕事中でも気付けば、怒りの思考の反芻に囚われており、
「今ここでなすべきこと」から随分とかけ離れたことを
頭の中でやっていたなと思う。
つまり、自分自身、知人への憎悪と一体化し、
心身が随分と居着いていたのだ。
憎悪の殆どを解消できた今の自分の状態を
あの頃の自分はとても信じられなかっただろう。
その理由としては、
「感情と自分自身は一体であり、切り離すことなどできない」
という思い込みに囚われていたからだと思う。
しかし、感情とその大元になったあり方(注意の向け方と解釈の仕方)
を書き出してみることで、気分が落ち着く効果がある。
このことは、感情と自分自身は切り離すことが可能だということを
証明しているのではないか。
だとすると、これをやらない手はない。
尤も頭ではそう理解できるのだが、
不思議と、実践が伴わず、億劫がってしまうこともあった。
なので、そこにもメスを入れたところ、
私は、その知人に対して、怒りを抱き続けていたい
という欲求があったことに気付いたのだ。
本来の自分は、穏やかな世界を好み、
そういう世界で愉快な人たちと関わって生きていたいと願っている。
しかしその一方で、自分が不快に感じる人達への怒りに浸りたがって
不快な世界に留まり続けようとしていたのだ。
この大いなる自己矛盾に気付くことができた。
私の人生の目的は、
「愉快に幸せに生きること」であるが、
実際にやっていることは、
「愉快なことよりも不快な感情を選ぶ」
だったのだ。
そもそも、私が彼らに憎悪の感情を抱いているのは、
彼らの価値観(今だけ、金だけ、自分だけ)に強い違和感を
持っているからであり、そんな価値観とは真逆の世界で
生きていきたいと強く思っているからではないか。
感情というものには、ちゃんと役割がある。
怒りの感情の本質は、
「大切なものを守るため」であるという話を
聴いたときとても納得したことがある。
ならば、私の彼らに対する憎悪は、
「自分が大事にしている価値観を守るため」のものであり、
その価値観を実践し、彼らが住んでいる世界とは真逆の、
「穏やかで互いに認め合う豊かな世界」の住人になるために
活かさなければならないだろう。
つまり、彼らの役割というのは、
「私を不快にし、消耗させるため」ではなく、
「私が大事にしている価値観をあぶり出し、その世界に向かわせるため」
だというのが、その本質だったと言えるだろう。
このことに気付いてからというもの、彼らへの憎悪の9割は消し飛び、
その分のエネルギーを「ご機嫌の自給自足」の実践のために
注げるようになったのだ。
これが、わずか4か月間で私の中で起こった、
大変革の正体だったようだ。
今ならば、こう言える。
「世の中には、付き合いたい人と
ヒントをくれる人の2種類しかいない」
と。
私がこのことに気付くまで、ひたすら嫌われ役を
担い続けてくれた彼らには感謝である。
これからは、憎悪や軽蔑ではなく、
感謝と敬意をメインエネルギーとして生きていきたい。
それが、嫌われ役を演じてくれた彼らへの感謝の表し方だと思う。