賞味期限のないスペックとは

私が生まれ育った熊本県は、異様に「高校閥」が強い。

熊本県民あるあるとして、

「あんた高校どこな?」

というやり取りが、初対面同士でもよく行われる。
(若い世代はそうではなくなっているかもしれないが)

私は、そのやり取りを傍から見ていると、
まるで犬同士が臭いを嗅ぎ合う姿を思い出してしまう。

相手の出身校を尋ねる目的は私には計りかねるが、
高校時代という濃密な青春時代の思い出をより深く共有するために
同じOBであるかを確認したがっているのだろうか?

しかし、熊本市という中規模クラスの県庁所在地だと
数十の高校があるので、OB同士である確率は低いだろう。
それは神経衰弱よりも割に合わないゲームである。

では何を目的としているのか?

そこで思い出したのが、
とある進学校出身者と飲みに行った時の事。

彼は、卒業から30年以上経ってもその高校出身であることを
誇らしげに語っていたのだった。

母校愛があるのはいいことだが、
どうも彼の場合は高校の偏差値と優秀なOBとの人脈に優越感を
持っているようで、「あの高校出身者は他と出来が違う」的な内容だった。

高校名はブランドがあるかもしれないが、
その人個人の魅力や実力は果たしてどうなのだろうか?
所属団体と個人は一度切り離してみる必要があると思う。

熊本の地元企業や県庁の幹部ではその彼と同じ高校のOBが
多数を占めているが、それ故に、その高校のOBの多くは
出身校を語りたがるようだ。

学歴や肩書には賞味期限があると考えている私には、
社会人になっても学閥を作りたがる人の価値観は理解できない。

もちろん、同窓会という組織は母校との繋がりを維持する機能として
大切なものだと思うので、OB同士で盛り上がる分にはいいと思う。

ただ、OB会以外で出身高校名を語りたがる人達の目的というのは、
「その高校とそれ以外の高校」という2元論化で他校を踏み台にして
優越感に浸りたいのだろうか?

昔、友人と飲みに行った時のこと。
近くに座っているおじさんが、

「あんた高校どこな?俺は○○高校(強い派閥)出身だけど」

と言ってきたので、
面白半分で「ラサール出身です(全くのウソ)」と応えたら、

急に酔いが覚めたのか、
「失礼しました!」といって席に戻っていったのだ。

以前、「自己顕示欲と自己肯定感は反比例する」という記事を投稿したが、これなどは、まさにそうだと思わせるエピソードだと思う。

肩書や学歴というのには、賞味期限があるし、
上を見ても下をみてもキリがない。

大人同士の会話であれば、何かほかにもっと
面白味のある話題がいくらでもあるのではなかろうか。

それに注目されるスペックというのは、
ライフステージ毎に変化するものだ。

思えば、小学校の頃、クラスで注目を集める能力というのは、
「足が速い」ということであったが、

私は足が遅かったので、足が速いクラスメイトには、
本当に憧れたものだったし、
あの時はその憧れがまるで永遠に続くかのように思えたものだった。

しかし、中学生になったら高校受験が最大の関心毎として浮上するので、
「足の速さ」というスペックの価値は相対的に低下していく。

私もいつの間にか、自分の足の遅さにさほどコンプレックスを
持たなくなっていたし、足の速い同級生にも別に憧れなくなっていた。

それと同じで、学歴というのにも「賞味期限」のようなものがある
と考えるのが妥当なようだ。

なので、卒業から30年も経っても、高校名を出して悦にいるその知人は、
未だに「俺は足が速いんだぞ」と至る場所で自慢していることと変わらないのではないか。そう思うとなんだか可愛らしく思えてくる。

ところで現在、私が最も関心のあるスペックとは
「ご機嫌の自給自足能力」である。

これは、過去に自分がどうだったかということなど一切不問の
「今ここ勝負」の真剣勝負である。

その能力に、年齢や性別、社会的立場などは関係ない。

そして、大事なのは、「今のご機嫌度」だけではない。
「不機嫌さからのリカバリー能力」も問われるのだ。

仮に、何か嫌な事が起こって、機嫌がー10まで落ちたとしよう。
しかし、自分でご機嫌化を意識して、ー9にできたのなら、
それもまた立派なご機嫌化である。

最悪なのは、誰かに鬱憤をぶつけて晴らそうとすることである。
それは、ご機嫌の自給自足アーティストとしてはあってはならないし、
最も格好の悪いことである。

だからこそ、この「ご機嫌の自給自足能力」こそが、
自己肯定感を高める上で大事なスペックではないかと考えている。

人生100年時代、賞味期限切れの学歴などに囚われていては
勿体ないとつくづく思っている。

加齢によって、肉体的には衰えを感じていても、
この能力を養っておけば、
自己肯定感はいつまでも高めることができるだろう。

そして、ご機嫌の自給自足ができれば、「ご機嫌のおすそ分け」も
可能になる。そうやって、ご機嫌の循環を回していけば、最高ではないか。

ご機嫌の自給自足能力が高い人が増えていけば、
おすそ分け文化も広がっていく。

それこそが、社会保障費を圧迫しないセーフティネットなのかもしれない。

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