失敗とは、「データを得ようとしない」こと。
最近、あることでストレスを3割程減らすことができたが、
それは何かというと、「失敗の定義」を変えたことである。
これまでは失敗というと、「上手くできなかった」とか、
「合格基準に達しなかった」、「期待した反応が得られなかった」
といったことを考えていたが、
この失敗の定義だと、その後に続くものは
「自己肯定感の低下」という後遺症である。
自己肯定感というのは、
何かをやり続ける上で実は非常に重要なものではないかと思っているが、
他者との比較で「上手くできない」とか「劣っている」と感じた時に、
これは損なわれるのではないか。
自己肯定感が下がった時というのは、心が痛く、辛いものである。
だからこそ、それを感じないように自己防衛策を必死に講じるものだ。
その際たるものは、「失敗しないこと」であり、
そのために、「挑戦しない」、「向き合わない」という
選択肢が取られやすいのだと考える。
実は最近、とある企画を起ち上げて、
それを所属コミュニティの中で周知したのだが、
想定した反応が殆ど得られなかったのだ。
以前の私ならば「大失敗」だとガッカリしたり、
ストレスを感じていたのだろう。
しかし、今回不思議とそのストレスを感じなかったのは、
この企画を「実験」とし、このコミュニティを実験場として
捉えていたからである。
もし、この活動を「成功のための挑戦」と捉えていたならば、
この結果は大失敗ということになるだろう。
そして、そのために投下した時間やリソースなどは、
損失だと認識されてしまうだろう。
「一生懸命やったのに期待した成果が得られなかった」という思いに陥ってしまうと、自己肯定感を下げるか、期待した反応をしなかった周囲に対して不満の感情を抱いてしまいかねない。
しかし、これを実験と捉える事で、結果に対する印象はまるで変ってくる。
なぜなら、その反応の如何を問わず、「データ」は得られるからだ。
つまり、「この周知に対して反応が無かった」という事自体が
実験データだからである。
なので、「データを得るための実験」と位置付けた以上、
やるべきことは、次のようなシンプルなものになってくる。
・「周知に対して反応が無かった」という結果に対して、
データとして向き合うこと。
・そのデータを次に活かして改善策を講じ次の実験を行うこと。
・このプロセスを回していき、起こる変化や出会いを愉しんでいくこと。
もちろん、ある程度結果は出さなくてはならないし、
コストパフォーマンスも意識せねばならないだろう。
だから「愉しむ」というと悠長な感じがするかもしれない。
しかし、「失敗」という思いに囚われて、次の活動に繋げないのは、
まさにサンクコストであり、何も浮かばれない。
それこそが最悪のコスパではないか。
そう考えると、本来の失敗の定義とは
「実験からデータを得ようとしないこと」
だと言えるだろう。
そういえば昔、大学受験で第一志望校に落ちた時に
ある人から言われたことが心に残っている。
それは、
「腐るのはいつでもだれでもできる簡単なこと。
だから腐らないことが大事」だということだ。
その言葉は、何気に私の支えとなり、
「如何にして腐らないようにするか」を心掛けてきたような気がする。
「失敗とはデータを得ようとしないこと」という新たな定義は、
まさに「腐らないようにするための方便」とも言えるだろう。
方便とはいえ、実際にストレスを和らげ、次の実験に向けての意欲を生じさせることができたのだから、これは立派なツールになっている。
大事なことは、自分にとって不都合な事実と向き合い、そこから学びや気づきを得て活かし、その先の展開を愉しんでいく、という営みなのだと思う。
成功に拘り挑戦という意識で臨むも悪くはないが、
私にとってはデータを得て次に活かし、改善していくプロセスである
「実験」という意識で臨む方が、理に適っているようだ。
やり方には個人差があるが、要は、
「腐らないでやり続けられる発想」
を持つことが大事なのかもしれない。
「データを得ようとしないこと」
という失敗の定義は、
「物事とちゃんと向き合わないこと」
とも言い換えられるだろう。
だからこそ、私は自分の身に起きた一見不都合な、
不快な出来事に対しては、実験感覚でデータを得ようと心掛けている。
それが自己肯定感を徒に損ねず、物事と向き合い、
活路を切り開いていくために必要なことだと体験的に知っているからだ。