記事を書くことの意義。日常のリズムを取り戻す大事な営み。

昨晩の風邪の症状から回復して、通常モードに復帰する上で、
記事を書くという営みの重要性を再確認できた。

私は風邪らしき症状になったのは実に5年ぶりである。
5年前に今頃、インフルエンザに罹ったのだが、
それを除けば、この10年間ほどは風邪のような症状に罹ったことがなく、

今回は、一晩限定とはいえ、実に10年ぶりの症状だったので、
やはり私の中では非日常性の強い出来事だったのだ。

なので、非日常から日常にモードを戻すには、
何らかのプロセスが必要ではないかと思っていたところであった。

そこで、最近、ルーティンになっていることの一つである
「記事作成」に取り組んでみたところ、風邪の症状の期間という
つかの間の非日常に溜まっていた想いや体験を一気に吐き出し、
たちまち日常モードへの復帰することができたのだ。

だから「記事を書く」ということが私にとっては
日常のペースに立ち返るためのプロセスとして
有効なのだということを実感した次第である。

ここで、「記事を書く」という営みは
私にとってはどういう意味をもつのか?
今まではあまりこのことについて考えることはなかったのだが、

非日常から日常に復帰するためのプロセスとして有効だということに
気付いた今、改めて問うてみたくなったのだ。

私にとって記事を書くこととは、何だろうか?

それは、自分の本心で強く感じたことを素直に告白する、
正直な自己表現の機会ではないかと思う。

ここで「告白」という言葉を使ったのだが、

もしかしたら、告白するという体験は、
よほど意識しない限り極めて少ないのではないか。

一般的に告白というと、意中の相手に対し、
積もり積もった好意を打ち明けて、交際を求めることくらいしか
イメージされにくいかもしれない。

ただ、告白というのは、自分の想いを素直に正直に
開示したり、伝えたい相手に伝わるように表現することだと
定義するならば、自分の想いを込めた記事を投稿して公開する
という行為もまた、立派な告白であろう。

そして、記事の内容は喜怒哀楽の様々な感情を織り交ぜていることが
あるが、それらは体験の中で発生するものであるため、
自分の体験談を含めることも告白の重要な要素だと言えるだろう。

あるいは、世間的にあまり認知されていない趣味嗜好を
語ることも告白といえよう。

いずれにしろ、自分の素直な気持ちや心理を語り、
自己開示すること、それらはいずれも告白の範疇に含められると
考えているが、それをやるには、多少の勇気が必要だ。

なぜならば、自己開示には、「この人はこんな人だ」とラベリングされ、
時には偏見や好奇の目にさらされるリスクを負うことが伴うからだ。

だからこそ、告白しても自分に不利益が発生しないであろうという
心理的安全性が担保されることが必要だが、

私が、割とマニアックな思考をこのnoteで公開し続けているのは、
ここには、そんな私の記事を好意的に読んでくださる方がいらっしゃることを実感しており、ここが非常に安全な場だと感じているからである。

安心して告白できる場所。

これは私にとっての居場所の定義であるのだが、

思えば、記事を書くという行為が日常的なものである所以は、
自分の安心できる居場所で、自由に想いを表現できるからだと思う。

風邪という現象が発生したのは僅か一晩だけのことであり、
しかもそれは、実は有難く尊い體のハタラキであるとはいえ、

日常とは一時的に切り離された非日常モードであったことには変わらず、
民俗学的にいうところの、一種の「ハレ」の状態であると考えるならば、

やはり、日常の「ケ」の状態に戻るためには、
自分のホームである居場所に戻る儀式が必要であり、
それが私にとっては、記事を書くという「告白行為」であったのだ。

尤も、記事を書くことで、
これまで出会えなかった素晴らしい人達と出会える確率も高まるため、
それは「ケ」だけでなく「ハレ」の場にもなりえているのだが。

ともかく、今の私にとっては日常のペースを保ってくれる
大切な営みであることを実感できた次第である。


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