天国と地獄の微々たる違い。~手に持った長いスプーンをどう使うか~
先日、畑の中の農道を自転車で走っていたら、
左側から農家の軽トラックが走ってきた。
私としては、こちらの進行方向の方が優先なので
そのまま進行方向に走ろうとしたのだが、
何とそのトラックは逆にスピードを上げて危うく牽かれそうになったのだ。
その時に運転席の高齢男性は、窓から何か大声で怒鳴ってきた。
多分、邪魔だと言いたかったのだろう。
私はこのトラックの交通マナーに驚き、
その後数分間は気分がモヤモヤしていたのだが、
ふと、「天国と地獄」という寓話を思い出した。
その話しは次のようなものである。
ある男が天国と地獄の違いについて神様に尋ねた。
すると神様は男をある部屋に連れてきた。
その部屋には、人間たちがスープの入った大きな鍋を囲んで座っていた。
それぞれが手に長いスプーンを持っている。そのスプーンでスープを口に運ぼうとするのだが、スプーンの柄が腕より長くて口に届かない。そのため、誰も満足に食事をとることができずに全員がひどくお腹をすかせており、苦しんでいる。
神様は言った。「これが地獄だ」と。
つぎに連れていかれた部屋は、
先ほどとまったく同じような部屋である。
置いてあるスープも長いスプーンも同じ。
ところがこの部屋の人たちは
手に持った長いスプーンでお互いに食べさせ合っている。
そのためお腹も十分に満たされ、その顔は幸せに輝いていた。
神様は言った。「これが天国だ」と。
天国と地獄の違いというのは、お互いを思いやり助け合っているか、
それとも「我さき、自分だけ」で生きているか。
この意識の違いによって発生しているに過ぎないのだ。
この寓話はシンプルながらも、実に示唆に富んでいる。
もし、この軽トラックが、私の走行の安全のためにスピードを
緩めてくれたら、私は気持ちよく、走行を続けることができただろう。
この軽トラックの高齢者は、多分いつも何かに急かされて生きているんだろう。だからこそ、本来スピードを出すべきではないカーブで、
しかも相手の方が優先である道路においても、「我先意識」によって
ブレーキではなくアクセルをふかしてしまったのだろう。
これは私が車を運転している時にも、
自分事として気をつけなければならない。
長いスプーンで自分のスープを飲むことしか考えてなければ、
きっとそうなる。
譲り合えば、天国。
我さき、自分だけで走行すれば事故(地獄)
我さき・自分だけ運転で節約できる時間などたかが数秒。
確かに、数秒も積み重なると長い目でみれば数時間にもなるかもしれない。
でも、我さき・自分だけ意識で節約してきた時間というのは、
一事が万事、その人の思考や言動の全てを
「我さき・自分だけ」意識によって染め上げてしまうのではないか。
自分の周りにいるのが、
長いスプーンで必死になって食べようとする人ばかりというのは、
まさに地獄だ。
だからこそ、私はこういう些細な日常の場面でこそ、
「譲る」という意識で、自分の中にもあるであろう
「我さき・自分だけ意識」に打ち克っていきたい。
そうすることで、「長いスプーンで食べさせ合う」意識の人達と
出会っていけるのではないかと思う。