「当たり前の有難さ」の実感は、微分係数のプラス化のコツでは。
25年前、大野勝彦さんの詩画集と出会ったが、
未だに印象に残り、益々その存在を大きくしている一文がある。
それは、
「もし、私の両腕が元に戻ったら私は嬉しさのあまり発狂してしまうだろう」というものだ。
この方は、農作業中の事故で両肘から先を失い、不屈の精神でリハビリを行い、今では義手であらゆることを行えるようになり、
とても義手で描いたとは思えない見事な書画作品を製作しておられるのだが、
そんな方でも失った両腕への憧れはこれほどまでにも強烈なものかと思い知らされる一文である。
五体満足である私は、「體の欠損が無い状態」を「当たり前」だという前提で生きてきたが、この一文と出会ったことで、「当たり前の有難さ」を時々思い出すようになれた。
また、この一文と出会った25年前と今では「当たり前の有難さ」はあらゆる面で重みを増している。
私個人の生活でいうと、ほんの数年前までは、自分の父親に認知症がないことは当たり前であったし、母の歩行に支障がないことも当たり前であった。
誕生から半世紀を迎えた私自身も、「今までの当たり前」が失われていく可能性は増えていくだろう。
そう考えると、「当たり前だと思い込んでいる事」を見直し、
それらを「今、ここ」のレベルで大事にすることは最も重要なことなのかもしれないと思えてならない。
先日テレビで、20代のALS患者の方が紹介されていたが、
この方にとって、「普通に體が動かせる」ことは奇跡のように思えることだろう。
私は毎朝、隣の公園で軽く運動したりストレッチしているが、
最近の寒さは、思わず外出を止めようかと思わせるものである。
そんな時、「普通に手足があること、體が動かせることが奇跡に思える人達」のことを考えると、寒さすら味わい深いものに思えてくるし、ダイエットのために日課としている運動も義務感が軽減されてくる。
根性や努力が極端に苦手な私にとっては、
「自分にとっての当たり前が奇跡に感じられる人の気持ち」を
想像することは、思わぬ原動力になりうることを発見した次第である。
もし、ユングの唱える「集合的無意識」というのが、見知らぬ他者の無意識とどこかでアクセスする手段になりうるのならば、
體の部位を欠損した人の代わりに自分が何かを体験している
という意識を持つ事で、その人達の無念を晴らす一助になれるかもしれない。
ふとそんなことを思い付きながら行動していると、
「今、ここ」に集中しやすくなった気がする。
ところで、「今、ここ」というと非常に抽象的でイメージを捉えにくいものだが、数学でいう「微分係数」のようなものだと考えると、私にはしっくりきやすい。
寒さで行動を面倒くさがっている時の微分係数をマイナスから0だとすれば、
「體を動かそうと思えば動かせる自分にとっての当たり前を奇跡に思える人達」を想像することで、微分係数をプラス化できることを実感している。
人生も半世紀過ぎると、「当たり前を失っていく不安」が大きくなるかもしれないが、だからこそ、「微分係数をプラス化する工夫」で愉しんでいきたいと思う
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