ミスディレクション=冒険の入り口
手品が成立するのは、
「ミスディレクション」というテクニック
があるからだと言われている。
「注意を向けたものしか認識できない」という
人間の性質を逆手にとって、
実はそこにあるものを別のものに注意を引き付けることで、
まるで存在していないかのように錯覚させてしまうのが
ミスディレクションの凄さである。
その威力を手品等で実感して以来、
自分が思わず注意を引いてしまいがちな刺激に対しては
警戒した方が良さそうだと思えるようになった。
そういえば昔、情報リテラシーの講師の人がこんなことを言っていた。
「自分の感情が引っ張られた状態こそ、情報操作は行われやすい」と。
マスメディアの報道を見ていると、
「実は、本当は~だった」と当初の報道内容を覆すような事実が
発覚することが多い。
しかし、報道当初は
「~は~なことをしているけしからん奴だ!」
と視聴者が道徳的に共感しやすいような内容に満ちている。
なので、私も含め多くの視聴者はそれに見事に釣られてその論調に
誘導され、その他の視点でその事件を洞察することを忘れがちである。
これなどは、まさにミスディレクションだと言えよう。
しかし、テレビや新聞などのメディアの報道だけではなく、
私自身も日常生活の中で、オウンゴール的にミスディレクション的な作用に陥ってしまうことが多々ある。
私はちょっとしたことで、ざわついたり、苛立ったりしやすい性質なのだが、そのキッカケとなった誰かの言動に対して、自分の価値基準だけで
是非をジャッジしてしまう。
そして自分自身を「失礼なことをされた被害者」だと位置づけてしまい、
被害者意識と相まってイライラを脳内で増幅させてしまうのだ。
その結果、実は目の前に存在しているはずの、
新たな発見や出会いのキッカケを見逃してしまい、
後になって、「そういえば、あれはそういう機会だったのか!」
と後悔することがよくある。
まさに、手品のミスディレクションそのものである。
だから、「機会損失」というのは実に自分の脳内で生み出した
ミスディレクションによって引き起こされているのではないかと
実感している。
その反省を踏まえ、最近は、自分の心がザワついたり、
苛立ったりした現場においては、
「それに引っ張られないための意識づけ」
を練習するようにしている。
その練習内容とは、平たく言えば、
心身の反応を観察することであるが、
まずは深呼吸することで、
「出来事と感情との切り離しを宣言する」
のである。
その宣言を取っ掛かりにして、自分を
「不快な出来事の被害者」ではなく、
「出来事に対して自分の反応を観測する者」として位置付け、観測し、
自己洞察を展開していくことにリソースを配分していくのだ。
これは一見面倒そうだが、
「練習すれば、必ず上達する」の原則どおり、徐々にではあるが、
「感情的なミスディレクションによる機会損失」を回避率が
高まる手応えを感じている。
以前に投稿したこの記事
「何気なく、さりげないもの」が連鎖して良い流れを起こしていくために|時間価値創造家
の背景には、実はこうしたミスディレクション対策が絡んでいるのである。
感情と自分自身を切り離してみる練習は、
自分の内外にある世界を探求する上でとても有意義
ではないかと感じている。
冒険とは、なにも遠い異世界だけでやるものではない。
自分の心のざわつき場面といった、非常に身近な場所でこそ
その醍醐味が味わえるものだと思う今日この頃である。