父への鎮魂歌

今日は父の1周忌命日である。
気付けばあれからもう一年。享年88歳。

父は晩年の6年間は認知症となり、
亡くなる3か月前にグループホームに入所した。

それまでは在宅で母と二人暮らし。

ゴルフ以外の趣味がなく、認知症になる前に心筋梗塞で倒れて以降、
ゴルフはぱったりとやらなくなり、以降何も趣味の無い日々を過ごす。

それが認知症の進行を進めていたように思える。

母も高齢であり、父の排便の世話など、
重労働かつ精神的苦痛の伴う介護の数々。

そのままでは共倒れになると判断し、
グループホームにて預かって頂くことを決断。

スタッフの方達からは本当に良くして頂き、
本人なりに快適に過ごしていたが、

亡くなる3日前、突然意識を失い救急搬送。
死因は漫画家の鳥山明氏と同じ硬膜下血腫であった。

搬送直後の父の様子は、
気持ちよさげに昼寝でもしているかのようだった。

年齢が年齢であること、意識はもう戻らないとの診断から、
せめて苦しまないこと。それがただ一つの希望だった。

当時の私は、それまでの父への感謝と安寧を祈る気持ちの方が強く、
まもなく待ち受けるであろう諸々の手続きに備えるかの如く
不思議と冷静であった。

父は結局救急搬送後僅か3日で亡くなったが、
何も苦しんだ様子はなく、
死に顔がとても立派だったことが誇らしかった。

「人は生きたように死ぬ」という言葉。
それは偶然にもその数日前に、ある方から聴いたものだ。

「生きたように死ぬ」。

それが本当ならば、
父はかなり立派な生き方をしてきたのだろう。
それが私にとっては誇らしく最大の慰めとなった。

通夜はその翌々日に行われた。

父を慕う甥や姪の方々が遠路はるばる駆けつけて
通夜から葬儀まで参列してくれた。

私にとっては従姉弟に相当する人々からは、

私の51年にもわたる父との付き合いからは
想像もできなかった知られざる父の温かい、
人情味あふれる優しいエピソードの数々を聴くこととなった。

父は私にとっては厳しく多少理不尽な面を持つ印象があった。

尤も、質素倹約でありながらも案外他人には気前がよく、
生活に困窮していた人には救いの手を差し伸べる一面が
あったことは母から聞かされていたので、

私達兄弟に対する厳しさは、
不器用な生き方による一種の愛情表現だったことは
ある程度理解していた。

しかし、それでもなお、
従姉弟たちから聴く父の姿はあまりにも別人のようで、
そんな父の一面を間近で感じられず、あるいは認めようと
しなかったことに無念さを感じたものだ。

弔辞は何故か三男である私が読むことになった。

おそらく、父の晩年には母の気分転換も兼ねて、
親子3人でドライブに連れて行ったことが理由だろう。

共有できた思い出の総量という観点でということか。

もしくは、その時は私が一番冷静さを保っており、
弔辞を書くだけの気力を備えていたように
二人の兄達から思われた為、かもしれない。

実際、変な話だが、
私は父の死までに、父に対してやろうと思ったことを
ほぼやることができたいうある種の満足感を持っていたのだ。

傍から見れば、私は晴れやかな顔をしていたかもしれない。

人はいつか必ず死ぬ。

基本的には親は自分の子供よりも早く逝く。

父が認知症になってからは、
そんな当たり前のことを日に日に強く意識するようになった。

父と会うたびに、
あれだけ読書家だった父の語彙が乏しくなり、
排泄という基本行為すらも介助を要するようになるにつれ、
私の中では父との別れが徐々に進められていったような気がする。

だからこそ、言葉でのコミュニケーションの代わりに、
美しい景色、風や日差しの心地よさ、草木や海の香り、美味しい食べ物、
といった五感への刺激を通して、父への感謝を伝えようとしていた。

私は、人生の価値とは時間価値と余命の積だと思っている。

「人生価値=時間価値×余命」

この公式は、私が時間価値創造家という肩書を名乗り始めた際に
考えついたものだ。

だから、父の余命はそう長くなくとも、
父と過ごす時価の価値だけはこちらの創意工夫で伸ばしていきたい。

そう考えて、認知機能の衰えた父でも、
五感を通じて時間価値を高められる方法を試行錯誤していた。

あれはもどかしくもあったが、
同時にクリエイティブで嬉しい時間でもあった。

ともかく、いつか来るXデーにおいて
「親孝行を間に合わせた!」と
納得できることを目指していた。

その時までに間に合わせれば、
私は悲しさは感じないだろうと思い、
ひたすら準備をしていような気がするし、
実際、そのようになった。

あれから一年。

その間は、寧ろ父の存在をより強く認識するようになった。
私の心の中に、あの時従姉弟達から聴いた私が知らなかった
父の人格を感じるようになったからだ。

父の実体はもはや骨壺に収まる程度になってしまったが、
心は通じ合っているような感覚。
それは想像しすぎであろうか。

ところで、私は数学の「虚数」という概念が好きだ。

もともと私は学生時代、数学が大嫌いだった。

その理由は、
「単に数式を暗記して計算して決められた答えをだすための
無機質な反復作業」としか認識していなかったからだ。

でも、社会人になって、ある方から
「数学とは翻訳である」という話を聴き、
私の中の数学の概念が一新した。

そしてその新たな概念を踏まえて数学と付き合い直してみると、
虚数というのはとても人情味のある優しい概念ではないかと
思えるようになったのだ。

虚数とは、この世には存在しない数字である。

しかし、この概念を用いないと解けない問題がある。

「杓子定規で、頑なな現実主義者」といった感じの数学が、
この世に存在しない、極めて捉えどころのない概念を扱うとは
案外融通がきき、懐が広いのではないか。

よくよく知れば、案外優しい存在。

そういう意味では、父も数学のような人だったのかもしれない。

実数としての父は存在しなくなったが、
虚数としての父は、私の中でその存在を強めている。

思えば父に対しては申し訳ないことをしたものだ。

本当ならば、私達息子に対しても、
従姉弟達に見せたあの優しさを
素直に表現したかったのではないか。

私達兄弟は、父の厳しい一面ばかりをフォーカスし、
それをもって父の人物像を完成させていたようだ。

それではまるで、ルビンの壺のどちらかしか見ない人のようだ。

そんな父への偏見が、優しさを表現する機会を
父に与えなかったのではないか。

そのことは、未だ悔やまれる。

しかし、人生100年時代。

その折り返し地点を丁度過ぎた私は、
往路とほぼ同期間をこれからも愉しんでゆかねばならない。

だから残りの往路は、虚数となった父とともに、

本来優しい人が、その優しさを如何なく発揮しやすいよう、
ご機嫌さが循環しあう世の中を創っていきたいと思っている。

それが、一周忌を迎えた父に捧げる
私なりの鎮魂歌だと思っている。

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