不安の本質とは
耳障りな音は誰にとっても嫌なものですが、時にはそれが必要な役割を果たす場合があるのではないでしょうか。
それは何かと言いますと、「アラーム」です。
アラームは耳障りな音でないと、役目を果たしません。
人に注意を向けさせるためには、少し気になる音でないといけないからです。
ある事を気づかせるために、アラームは鳴り、気づいたらそれを消すのが、一連の流れです。
アラームが鳴っていて、必要なアクションを取り始めたなら、 アラームを鳴り放しにすることはないでしょう。
そこに異論はないと思います。
でも、今までの自分自身を振り返ってみて、実は必ずしもそうしてこなかったことに気づきました。
アラームは嫌になるぐらい鳴っているのに、 それを消そうとしなかったことにです。
それは、不安というアラームに関してです。
私は、これまで、
過去に起こした失敗や後悔を思い出しては苦い思いに浸ったり、
それが将来また起きないかという不安の先取りを性懲りも無く繰り返してきました。
確かに、不安のおかげで、不安の原因となる事柄に対処し、必要な準備を整えるなど、大きな失敗をせずに生きてきたというメリットはあります。
でも、不安の本来的な役割という点で考えると、
「おい、そのままでは、ちょっと準備不足ではないか。 あれとこれも必要ではないか」
という警告そのものであり、不安の感情自体は事が済んでしまったら消えてしまっていいはずなのです。
それなのに、将来起こる可能性が低いし、 過去にも起こらなかったようなことについても、
何故だか警戒し、漠然とした不安を感じることもあります。
それは、必要なアクションが必要だよという アラームとしての機能ではなく、
単に感情だけを揺さぶるだけです。
例えて言うのなら、本来は、朝7時に起きればいいし、 それだけの睡眠が必要だと思っているのに、
夜中の3時に目覚ましのアラームを鳴らすようなものです。
何故「不安」というアラームに限っては、 鳴らさなくてもいいタイミングで鳴らしたり、
それを鳴りっ放しにしてしまうのでしょうか?
アラームの本来の役割を思い出せば、 その気をつけるべき対象を把握してしまって消せばいいだけです。
でも、不安を引きずってしまうのは、不安のことを恐怖の対象として意識しすぎるからではないでしょうか。
何故なら、人は注意を向ければ向けるほど、 それにエネルギーを注ぎ、その対象を育ててしまうからです。
不安は、単なるアラームであり、必要なものです。決して自分を悩ませる強敵などという御大層なものではないということを心に留めて置けば不安に悩まされることは無くなっていくものだと思います。