自分は当たり前に記憶される存在だという前提を持とう

先日、行きつけの本屋で、ある画家のイベントがあった。
その男性画家は、ここ数年で急激に知名度を伸ばし、
それに伴い作品も飛ぶように売れ、地元の企業の広告などにも
彼の作品が使われるようになるくらいの、大躍進を遂げられたのだが、

私が彼と初めて会ったのは、今から8年前、初個展の時であった。
その時は殆ど客もおらず作品も売れていなかった。

ただ、私は彼の人柄とその作品の双方に魅力を感じたので、
今では破格の値段で絵を購入させて頂いたのだが、
私が初の購入者であったことや来客者がおらずヒマであったことから、
しばらく、彼とその場に同行していた彼の奥さんと3人で
会話することができたのだ、

絵には関して素人の私が話すその作品の感想についても
嬉しそうに耳を傾けてくれた二人の姿が印象的だった。

それから彼は活躍の機会を増やし、
その都度私も個展にお邪魔させて
頂いたのだが、大勢の来客者と接する中でも
彼と奥さん共には私のことを名前まで覚えてくださり、
謙虚で人を大事にする温かい人柄に感激していた。

それからはとんとん拍子に彼の作品は評価され、
絵画展ではグランプリを受賞するなど、
瞬く間に売れっ子画家になっていったのだ。

その間は私は彼の個展に行くタイミングを逃して
長らくご無沙汰していたのだが、
先日のそのイベントで実に数年ぶり彼の姿を観ることができた。

そして超売れっ子作家になった現在も、
彼の物腰はまったく変わっておらず、
最初に出会った時のまんまであった。
それがとても嬉しかった。

イベントではQ&Aの時間が設けられていたのだが、
参加者からの声が聴き取りにくい時には、
わざわざ自分から質問者の方に歩み寄って間近で声を
拾おうとするその姿に、
「この人は本物だ!」と感動したのだ。

正直、私は作品を購入したのは、最初の個展の時だけだったし、
それ以降は特に会話する機会もなかったので、
私のことを覚えているだろうとは全く思っていなかった。

ただ、いちファンとして彼の作品を大事に所有していることや、
絵に興味が無かった私の妻でさえ彼の作品に魅力を感じ、
そのお陰で私たち夫婦の間に絵画という共通の話題ができたことを
伝えたくて、イベント終了時のタイミングを伺って挨拶に向かおうと
したのだが、何と彼の方から私に気付いて挨拶に来てくれたのだ。

彼ほど目まぐるしく活動している作家はあまりいないだろう、
多くの関係者に囲まれているはずなのに、随分会っていない一鑑賞者のことを覚えている方が不思議である。

にも関わらず、覚えていてくれた。

そしてさらに驚いたことに、
その場に同席していた彼の奥さんも私のことを
「お久しぶりですね!」と笑顔で応じてくれたのだ。

私は思わず感激のあまり「覚えてくださってありがとうございます」と
言ったのだが、彼女はそれに対し「当たり前ですよ!」と言ったのだ。

その時なんとなく寂しそうな気配をその一言の中に感じ、
ハッとさせられたのだ。

私の中には「人は忘れ去られることの方が多い」という
冷たい世界観が根強くあったことに気づかされたのだ。

「当たり前ですよ!」というひと言の中に、
彼女の世界観は「人は忘れ去られるものではない」という
温かい信念に満ちているように感じられ、

逆に「覚えてくれてありがとう」という感謝の言葉は、
謙虚さと感謝の皮を被った冷たく寂しい世界観の顕れ
だったことに気づかされた。

久しぶりに会うことができた、この夫婦は本当に温かい人達だと
実感できたことは、私の世界観を温かく豊かに彩ってくれた。

そして、このように温かい世界観を持っている方がいる以上、

私もまた「覚えてくれてありがとう」のような
自分をディスカウントするような
卑屈で寂しいセリフは二度と言うまいと決意した。

私もまた、目の前の人を大事にするあの画家夫婦のような人間でありたい。

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