風邪の概念を変えることで風邪の症状を一気に解消できたこと

かねてから、
概念というものは自分の注意の向け方と解釈の仕方の
中心軸となるものではないかと考えていた。

それが、
以前の記事でも述べていた「綿菓子理論」にも繋がっているのだが、
この仮説を検証するために、日常生活の出来事はその機会として
活用すると面白いとつくづく感じている。

実は昨晩、少し喉が腫れ、寒気を感じたので、
「もしかして風邪かな?」と思い、
ひとまず早めに寝ることにしたのである。

そして明け方、體が少し火照っていたので、風邪ではないかと思い、
自分がこれから数日間、風邪で寝込んでしまうシナリオを想像し、
気分が落ちそうになったのだ。

しかし、昨日の記事で書いたように、
「エゴは水中メガネ」であること、
「人生のパイロットであること」を意識し、
次のように考えてみたのだ。

それは、
「そもそも「風邪」になったら悪いことなのか?」と。

考えてみたら、風邪というものに対しては世間的には
「誰しもかかる厄介な病気」という認識が一般的ではなかろうか。

TVでも風邪薬のCMが頻繁に流れており、
「風邪は万病のもと」と言われている。

また、近所の内科診療所では連日風邪の患者でごった返しているとも聞く。

これは、風邪に罹ったら外部の力を借りてでも早めに治したいと
思っている人が多いことを現わしているのではないだろうか。

となると、風邪というのは、
「症状を発見次第、速やかに医療機関を受診するか、風邪薬を飲んで
解消すべきもの」という認識を持たれていることは間違いなさそうだ。

実際、私も昨晩、風邪らしき症状を認識した時点で、
もし熱発したならば、近くの内科を受診しようかと考えたほどなので、
世間一般の風邪への認識と同じものだったのだと思う。

しかし、この時ふと、先日読んだ本の中にある
「信念とは現実の青写真である」
という一文を思い出したのだ。

つまり、「風邪=悪いもの。直ちに治すべきもの」だという信念が
自分の中にあったことに気付かされたのだ。

まあ、「信念」というと、少し大げさな感じがするので、
ここでは「前提」とか「概念」と言い換えてもよさそうだ。

いずれにしても、風邪というものに対する前提的な概念が
そうであったことに気付かされたのだが、

さらに言えば、
風邪に罹った状態に対しても、

「しばらく寝込まなければならない」とか、
「風邪に罹っている間は体調が悪いので有難くない状態だ」

という前提(信念)を無意識的に持っていたことに気付いたのである。

そして、この前提についても、果たしてそうなのか?
と疑いを持つことにしたのだ。

なぜならば、風邪の症状というのは、
體に蓄積された病原菌を追い出すための體のハタラキによるものだ
ということを思い出したからである。

つまり、體は、風邪という機会を使って、
自分の體の機能を整えてくれるために、働いてくれているのだ。

そもそも、風邪というのは、誰しも罹患するものだ。
裏を返せば、誰でも風邪を治せるということでもある。

さらに言えば、風邪くらいは治せる治癒力を誰しも標準装備している
とも言え、その機能を発動させるための大事な機会として
風邪という症状が存在するのではないか?

もちろん、普段から非常に健康的な生活を送っていれば、
風邪に罹る確率も減らせるだろうが、風邪に罹ることで自分の生活を
顧みて、體に無理をさせていなかったか自分の體と対話する機会
だとも言えるだろう。

そう考えると、風邪という症状の背景にある體のハタラキに対して
感謝と敬意を感じずにはいられない。

なにせ、少し休めば體が回復できるほどの症状でもって、
體をメンテナンスできるし、自分の生活を改善するヒントを得る
機会となるのだから。

そのお陰で、風邪の概念が、
「迷惑なもの」から、「有難く尊いもの」に大逆転できたのである。

そして、「風邪で休養している自分」のイメージも、

「日常活動の機会を損失している弱者」から

「體のオートメンテナンス機能を発揮させ、
日常生活の改善のヒントを得ようとする探求者」

へと一新することができたのだ。

そうなったら、話しは早い。
ひたすら、ありがたく、愉しみながらこの體の防衛機構を
味わうのみである。

すると、面白いことに、そのあとは深い眠りに落ち、
その3時間後に目覚めた時には、症状が消えて通常の体調にまで
回復していたのだ。

これには驚いたのだが、

これが自分の體に標準装備されている素晴らしい機能なのだ
ということを実感できた。

そして、これまでの風邪への概念が如何に體のハタラキぶりを
無視した失礼なものであったことにも反省させられたのだ。

體はもともと、自分を生かすために、休みなく働いてくれている。

そして自分の不摂生さがある閾値を超えた時には、
風邪というマイルドな警告を発し、自分に休養の機会を与え、
その間、一生懸命にメンテナンスをしてくれているわけであるが、

自分のエゴは風邪という表面的な現象だけを捉えて「迷惑だ」とか
「早く治そう」とか思ってしまい、その背景にある體の有難い機能に
対しては完全に無視していたのだ。

ここでふと、よくある受験生の親と子の会話を思い出した。

一生懸命受験勉強している子どもに対して、その親が
「ちゃんと勉強してる?今年こそは大丈夫?もし不合格だったら来年どうするの?」と自分の子供の頑張りを信用しないような言葉を投げかけるのに
似ているのではないか。

そう考えたら、自分の體の中にある神秘的なハタラキを「信じる」
ということは、至極当然なことであり、そこには感謝と敬意を払うのが
当然だと納得した次第である。

ところで、ある方はこのような神秘的な體の作用を「しんじる」ことを
「神知る」と表現されているが、まさに納得である。

さて、冒頭で私は、
「概念というものは自分の注意の向け方と解釈の仕方の
中心軸となるものではないか」、と述べたが、

やはり今回の風邪という現象においても、
風邪の概念を自分を活かしてくれるものへと変えることで、

それを裏付ける根拠を絡め取って、
より好ましい現象を導き出してくれたので、
この仮説をさらに強化することができたと思う。

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