幸福のありか

 受験生限らず、努力しても成果が実らないというのは耐え難い苦痛だ。費やした時間が徒労になってしまうこと、自分の能力の底、才能と凡庸、などなど。人生可能性に満ち溢れているのは別に間違いじゃないがそのいくつを己は手に入れられるのか、その器の大きさは前述した才能やら環境やらで決まる。
 いっそのこと諦めて身の程にあった生き方をしたくなる。多分それも正解の一つだ。だけど諦めたそのときからまた鉄と茨の道に戻ることは難しい。後悔がふっと湧いてきてもそのしこりを取ることはほぼムリだろう。だから人は諦めたらそこで試合終了と脂でギトギトの顔で言うしそのくさいやり取りはずっと続く。その人はそれで成功したかもしれないがこっちはしったこっちゃない。ある意味で刹那的快楽主義、止まない雨はないが今を凌ぐための傘をくれ。
 そうした生き方に幸福は宿るだろうか。あるひとにおける人生観というはおおよそ見てきた本、関わってきた人で決まる。熱血教師に学んだ人は幸福は努力の対価であると考えるし宝くじを当てた人は人の世は運であると考える。まぁつまり「幸福のかたちは人によって違うよね」ということだ。ここから一気に具体例、というかこの文字を打っている真っ最中の僕の感情についてつらつら書いていくだけだが、例えば判定が芳しくない大学から実力相応の大学に志望を下げるとする。そこでは受験というクソカスキショマラソンのレーンから降りるという状態、諦めが発生し、「開放」または「後悔」が自発する。僕が志望校を下げた場合、一時はそこに幸福が生まれるだろうが、その先人生はどうだろうか。「あのとき、続けてればなぁ」みたいなダセェことを思ってしまうかもしれない。つまり長期的に見れば得られる幸福はむしろマイナスになっているのはないだろうか。だがこれはあくまで僕が悔恨を覚えて場合。僕がオプティミスティックであればどの大学に行っても、幸福はきっと減らないはず。楽天主義とはそのような存在であるのだから当然だが。とにかく、現時点では僕がどちらの存在であるのか分からないのだから、諦めるなと言うのも一概に正解とは言えないのではないだろうか。まぁどちらにせよ勉強は頑張らなきゃね。あーあ、明日朝起きたら女の子になって、かわいい服着てかわいいお店で友達とかわいいもの食べるんだ。そうして夕焼けの河川敷を歩いて今この瞬間が永遠だと疑わない純の眼で等身大の生活が並ぶ下町の住宅を歩いてお家について、6時にやってるアニメを見て美味しいごはんを食べてぽかぽかのお風呂に入って、寝るまでの時間を自由に過ごすんだ。スマホなんて見ないよ!魂が汚れるからね。読みかけの小説を読んで、飽きたら漫画を読んでそしたら眠たくなってくるから、お布団に潜って寝よう。もしかしたらそのまま一生目が覚めないかもね。それでもいいな。それがいいな。人生の美しさだけを象ったみたいな僕でいたい。でもそんなの叶うはずない。現実は暗くて固くて冷たくて。楽しかった幼少期の絞り粕を生きてる。蛇足の日々は続くよそこに俺がいてもいなくても。それを少しでも良くするためにいい大学に入って、いい会社に就職していい家に住もうとしてるんだ。クソが。
しあわせは歩いてこない。だから歩いて行くんだね
俺なりの幸福を見つけてみせるよ

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