竹島問題の変遷を整理する
長きにわたる歴史問題の一つ、竹島問題。
ただの岩礁島ですが、現代社会は海洋領土という面でEEZの問題がありますので簡単にはいきません。
そして、戦後、この問題は日韓関係の政争の具として扱われてきました。
詰まるところ、この問題の解決策はどちらかが譲歩するまで終わらない。
そして、終わることを期待していないのが米韓だと個人的には思っています。
では、竹島が日本の領土か否かについて、歴史的な背景から確認しておきたい。
資料は下記サイト
前提となる事実
第一次草案
1949/12/29、米国国務省の対日講和条約の草案に関する注釈書(1950年(昭和25年)7月付)によれば、竹島は日本の領土という認識であった。
草案が作成される以前(1949年)において、ウィリアム・ジョセフ・シーボルド(マッカーサーの代理人時期)は、バターワース国務次官補に対して、竹島は日本の領土である勧告とする電報を送付した。
したがって、草案が作られる以前から米国は竹島を日本の領土として認識した対応であった。
草案がまとまるまで
米英は付属する島々に関する紛争問題を懸念して、草案がまとまるまでは段階を踏んで行っていた。
1950年11月20日付駐日英国連絡公館から本国政府外務省への報告
対日平和条約- 米国と英国の草案
1951年(昭和26年)3月23日(米国草案)
1951年(昭和26年)4月7日(英国草案)
対日平和条約米国草案に関する検討
1951年(昭和26年)年4月23日
米英事務レベル協議の中間報告メモ
1951年(昭和26年)4月
米英協議第7回会合議事概要
1951年(昭和26年)5月2日
英国政府内部資料に見る米英協議において作成された共同草案
1951年(昭和26年)5月3日
韓国の主張までの経緯
韓国を含む朝鮮半島統治の歴史
第二次世界大戦終結までは日本が朝鮮半島を統治していた。
大戦終盤に行われたヤルタ会談が1945/2/4に開催され、朝鮮半島は米ソが分割して信託統治と決定されていた。
つまり、終戦を迎える前の段階で、すでに朝鮮半島は日本の敗戦後に米ソで分け合うことを決めていたのです。
冷戦に入ると
アメリカ主導で1948/8/15 大韓民国政府樹立を宣言し、初代大統領に就任。初代大統領は李承晩(りしょうばん、イ・スンマン)。
ソ連が主導して1948/9/9に北朝鮮の独立。
金日成が初代委員長。
つまり、韓国は日本に統治され、アメリカに統治され、独立出来たのは1948/8月である。
マッカーサー・ライン
マッカーサーは、日本占領にあたっての日本漁船の活動範囲を示すために暫定的にマッカーサー・ラインを引いた。
ここに竹島までの漁業権は与えられなかったのである。
確定ではなかったことは文書で明らかであるが、のちに問題となった。
韓国が竹島の領有権を主張する上で行った事実と経緯
梁裕燦駐米韓国大使からアチソン米国国務長官に宛てた書簡
1951年(昭和26年)7月19日
ラスク国務次官補から梁裕燦駐米韓国大使に宛てた書簡(控)
1951年(昭和26年)8月10日
要約すると、講和条約を策定する上で韓国がアメリカに修正案を提示したが拒否された。
竹島(独島)の領有権を主張する根拠
韓国の官撰文献。
安龍福(アン・ヨンボク)の供述。
1900/10/24、鬱陵島を鬱島に改名し区域は鬱陵全島と竹島・石島(=独島)を管轄するとしたという勅令があった。
韓国版竹島問題HP
内閣官房(日本の行政HP)
1951/9/8 サンフランシスコ講和条約(日本国との平和条約)
この時点で正式に朝鮮の独立を承認することとなった。
米国の通告を無視する韓国政府
李承晩ライン
李承晩が竹島を韓国領土と主張するために李承晩ラインを引いた時期。
1952/1/18、隣接海洋に対する主権宣言をしたときである。
1952/2/12 にはアメリカも韓国政府に対し、李承晩ラインを認めることができないと通告したが、韓国政府はこれを無視した。
米軍の演習に対する抗議
在韓米国大使館発韓国外務部宛口上書
1952年(昭和27年)12月4日
米軍が竹島上空で爆撃演習を行っていたことについて抗議したが受け入れられなかったというもの。
日本の竹島の認知の経緯
そもそも、竹島という島名は改名された
韓国の東にある島々、日本の島根県北にある島々が原因たる島々です。
地図上では日本側から北西に向かって隠岐諸島、竹島、鬱陵島と順に並んでいます。
隠岐諸島、鬱陵島は人が生活できる島であって、事実として生活していたし今も生活している。
竹島は岩礁島であって小さな岩の塊でしかない。
日本の幕府は現在の鬱陵島を「竹島」と呼び、現在の竹島を「松島」と読んでいたようです。
明治政府は1880年に現地調査の結果から「竹島」を鬱陵島とし、「松島」を竹島と改名しました。
1905年、明治政府は閣議決定で竹島を島根県に編入した。
岩礁島である竹島の利用価値
歴史的には1618年(1625年?)に、大谷甚吉、村川市兵衛の二人は鬱陵島への渡海する許可を幕府から得て、両家は交替で毎年1回鬱陵島に渡海していたようです。
その際、鬱陵島への航路にある竹島(岩礁島)は船がかり(停泊地)やアシカ、アワビの漁獲の好地にもなりました。
日本が鎖国をしたときは対象外の鬱陵島
かつて日本は鎖国をしました。
1639年-1854年まで日米和親条約締結までです。
ちょうど、鬱陵島へ渡海を始めた後年です。
その際に鬱陵島が外国領ではないと思っていたため、規制はされなかった。
鬱陵島への渡海禁止
1618年から渡海を始めた二人は1692年まで問題なく渡海しており漁などの事業をしていました。
1692年、村川家が鬱陵島に行った際、朝鮮人が漁採していたそうです。
翌年、大谷家が朝鮮人と遭遇したことから、安龍福(アン・ヨンボク)、朴於屯(パク・オドゥン)の2名を日本に連れ帰ることとしました。
この年代は日本が鎖国中です。
対馬藩は幕府の命で朝鮮王朝に二人を送還するとともに、朝鮮王朝に対して朝鮮国民の鬱陵島への渡海禁止要求をしたが交渉はうまくいかなかったようです。
1696年、幕府は鬱陵島へ日本人が定住していないことや、幕府が領有権を主張していないことから朝鮮王朝と揉めるのを避けるために、日本人の鬱陵島への渡海を禁じました。
当然です。鎖国中なのですから外国領と分かった時点で渡海は出来ません。
しかし、岩礁島である竹島は禁じられていない。
竹島一件
Wikipediaによれば、鬱陵島はかつて于山国という国家があったといいます。
日本が鬱陵島を認識する以前からです。
そして、朝鮮王朝が朝鮮人の鬱陵島への渡海を禁じていたという経緯もあり、無人島であったときに大谷甚吉、村川市兵衛の二人は渡海していたのです。
詳細がどこまで事実なのかどうかという問題はWikipediaだけに領土問題でもあることからして真実性が疑われる部分もあるでしょう。
しかし、日本の言い分としては鬱陵島は朝鮮人が往来し始めたことや揉めたくないということから身を引いたという日本からすればネガティブな事実を認めているのです。
1692年に日本人が朝鮮人と鬱陵島で遭遇した事実は、朝鮮王朝から渡海禁止であった鬱陵島に不法に渡海した朝鮮人がいて、それを逮捕して連れ帰ったというのが史実。
そうすると、鬱陵島を譲った事実については真実性があると言って良いでしょう。
安龍福(アン・ヨンボク)という朝鮮人
安龍福が鬱陵島から連行された時の話によれば、定住していたわけではないが、漁に出ていて不法に鬱陵島に辿り着いたようです。
朝鮮王朝は鬱陵島への渡海禁止となっていたため。
1693年に大谷家に逮捕されて連行された経緯、その後送還され、3年後の1696/5月、鬱陵島と于山島の領有の訴願をしに日本に来たという。
結局、幕府に追い返されたわけだが、案龍福の朝鮮王朝に対する供述が問題視されており、彼が言うには、
日本人は竹島(岩礁島)から鬱陵島へ来たと言っている。
日本が渡航禁止令を出した事実関係に矛盾がある。
竹島は朝鮮領であるというが距離感も違えば、「岩礁島」にも関わらず「大きな島」と言っている。
鬱陵島と竹島が朝鮮領という書契を幕府からもらったが、帰路につく前に対馬藩が奪い去ったという虚偽。
などなど、事実関係に疑問符がつく内容ばかりです。
つまり、韓国としては案龍福の証言をもとに鬱陵島の領有権を主張し、ついでに竹島も主張しているようです。
竹島問題の密約
日韓基本条約締結5ヶ月前の1965/1/11、河野一郎建設大臣の特命で宇野宗佑衆議院議員がソウルで丁一権首相と会い、「未解決の解決」を大原則に全4項からなる竹島付属条項に合意していた。
竹島密約は「解決せざるをもって、解決したとみなす。従って、条約では触れない」という2文を中心に、
独島(竹島)は今後、韓日両国ともに自国の領土と主張することを認め、同時にこれに反論することに異議を提起しない。
将来、漁業区域を設定する場合、両国が独島(竹島)を自国領土とする線を画定し、2線が重複する部分は共同水域とする。
現在韓国が占拠した現状を維持する。 しかし警備員を増強したり新しい施設の建築や増築はしない。
両国はこの合意をずっと守っていく。
このような合意があったことについて、平成19年3月26日提出の質問主意書を鈴木宗男議員が行っている。
個人的感想
領有権の知識が乏しい両国
朝鮮半島に近い鬱陵島は、朝鮮に近いので行き来も可能でしょう。
何より人が住める島です。
幕府は最終的には鬱陵島の領有権の交渉を諦め、日本人の鬱陵島への渡海を禁止した。
しかし、鬱陵島への途中にある竹島(岩礁島)は禁止されていない。
一方、竹島の領有権を主張する現代韓国は鬱陵島からさらに100㎞弱もあるただの岩礁島である竹島の領有権を主張するのですが、現代においては排他的経済水域に関係するので領土問題として主張しているに過ぎず、そもそも人も住めないただの岩礁島を300年前以前から領土を主張していたなどあり得ないわけです。
竹島は、韓国からすれば鬱陵島よりさらに100㎞も下らなくてはならず、それが最果てになるのです。
人が住めない島に固執できるほど、当時の離島に対する警備体制は皆無だったでしょう。
また、「于山島」という島がところところで出てきます。
韓国側の書籍では、鬱陵島の西側に存在しているようです。
この島、地図で確認出来ません。
Google、Yahooも出来ません。
竹島は鬱陵島から南東に位置します。
竹島は映っていますが、鬱陵島と比べて極端に小さい島です。
つまり、領土問題に発展しているので于山島は消されているのでしょうか?
こんなことでは一生解決できんでしょうね。
ということで、日本は以後の竹島は日本としても漁採目的で利用していたということですが、領有権を完全に獲るということまではやっていなかったということです。
朝鮮人からしても、定住できない岩礁島の領有権など、当時のアジア人の知性レベルでは到底辿り着くこともありません。
だって、人が住める環境ではないので、お互いが定住目的の領土という認識はなかったでしょう。
常識的に考えて、当時からただの岩礁島の領有権を争うほどの漁採が活発であったことでもないからです。
朝鮮人からすると、鬱陵島より先には岩礁島しかないのですから、領有権などの認識は皆無と言うほかありません。
要するに、日本としては鬱陵島は朝鮮王朝に譲ったが、岩礁島である竹島は譲ったつもりはない。
韓国側は、鬱陵島はもちろんのこと、歴史的に岩礁島である竹島も韓国の領土であるはずだという話です。
近代化が進み、国際法が確立した現代においては非常に重要な問題となるので、今となっては両国は一歩も引けない状態なのです。
米韓は解決を望まない
おそらく、米韓はこの問題の解決など考えてはいない。
日本と揉めているだけで韓国は日本叩きのネタになり、米国は紛争している間は軍備の面で金になると考えます。
よって、解決することすら望まないのでしょう。
そして、日韓のこれまでの密約経緯を考えても、それは単に棚上げであり漁業権だけが重要な問題であることから、パフォーマンスでしかない。