言語化ってそんなにいいもの?
こんにちは。じごくよりお届けします。
最近、「言語化」って言うワード聞きがちじゃないですか?「言語化が凄い、賢い」とか、「言語化してくれや」とか。
今日は
①言語である必要あるか?
②なんでも言語化したらええのか?
この2点について説明していきます。
①についてですが、
言語化って物事の抽象度を下げるっていうことだと思うんですけど、別にそれって言語である必要あんのか?って思います。
「悲しい気持ち」を説明する時、「うまい棒が11円になったときの気持ち」と説明したら言語化ですが、
悲しいメロディーを奏でて聴かせてもいいし、
悲しいそうな顔をしている顔の絵を描いて見せてもいいし、
そいつの前で大泣きする演技をして見せる、でもいいと思うんです。
すなわち、解像度を上げる行為であれば何でもいいはず。
僕はこれらを平等に評価するべきだと思っています。
僕は音楽を聴くとき、このメロディーはどういうことを説明しているのか?という視点で見ることが結構ありますが、新たな視点をもらえて、やったぁーってなります。
余談ですが、
僕が中学生の時、めちゃくちゃ絵が上手いけど成績が悪い奴がいてまして、そいつが僕に「英語とかってやったほうがいいん?」って聞いてきたんですよ。
でも、僕はそいつのことを素直に尊敬してたので、「お前は1つ言語持ってるからそれでいいだろ」って言ったんですね。マジでいいアドバイスしたかも俺〜と思ってましたが、
それからマジで勉強しなくなってさらに成績下がってました。程度ってありますからね。
だから、言語化が上手いやつも、表情豊かなやつも、上手く表現できてれば同じくらい凄いし、我々はそこから学びを得ることができるはず、と思っています。
②「何でも言語化すればいいわけではない」についてですが
ラベリングの弊害って結構あると思うんですね。言語化して、物事の解像度が上がるとそれに対しての思考がより深まって、良くない方向に物事が進むっていうことがある思うんです。
例えば、なんか肩痛いなーって思ったときにテレビで「肩が痛い人は腎臓がんの可能性が高いです」って言われたら、えっ?ってなりますよね。安心してください。履いてますし、これは嘘です。
とにかく、言語化なりして、解像度を上げる、情報量を増やす行為をすると、それをおかずに米(思考)が進むと。でも思考しない方がちょうどいいっていうこともあるはず。
心配しても意味のないことを心配してしまったり。
あとは感覚で伸ばすべき能力を無理に言語化しようとしたりすると意味をなさないがちじゃないですかね。
僕野球やってたんですが、バッティングで上手くいったときに無理に言語化しようとすると次上手くいかないことが多くて、なんでかなぁと思ってたんですが、これはおそらく、言語化できるほど仕組みが簡単ではないからだと思うんですね。
体の動かし方ってここを意識すれば全て変わるなんて単純じゃなくて、ここで溜めを作って、ここは止まって、このタイミングでバットとボールを重ねて…みたいな
変数多すぎる連立方程式状態。
しかも上手くいったの一回だけだから、式は一本。あちゃーっ、解けるはずもなく。
不正解の言語化をして、上手くいかないみたいな。
だから、言語化してもそれほんまか?っていう視点が必要で、変数多い匂いするならもう宇宙感じて神頼みしながらか頑張った方がええんちゃうかって思ってます。
というわけで、言語化がもてはやされてるのがよくわからないという話でした。
ありがとうございました!