
「若くして賢い」ことに価値はない
こんにちは。じごくよりお届けします
僕は高3でして、小学校の頃からこんな事を考えています。親や周りの大人に意見をききたくて、自分の考えを話すと、ほぼ100%「賢いなぁ!その歳でそんなこと考えられるんすごいな!!」って褒めてもらえるのですが、それで終わり。意見もらえず。クソ。損。
こんなことばっかりでして、僕の考えを受け止めてはじき返してくれる大人はいなかったですと。
正直褒められて嬉しくなっていたのですが、よく考えると、自分よりアホなやつ(ここでは考えてる奴のことを賢い、考えてない奴の事をアホとマジで身勝手な定義をしている)が俺より楽しそうな生活しとんなと、思いはじめまして。ほな、この俺の考えることの価値ってあんのか、と思うようになりました。
僕の結論は、「若くして賢い」ことに価値はなく、その賢さを生きやすさに変換できる奴が賢い
ということになりました。
定義をすり替えただけなので説明もクソも無いのですが、僕の中での賢さの優先順位が、考えられる能力よりも、生活をしっかり出来る能力の方が上になったということです。
賢さがエンタメになる(詩や短歌、小説など)時もあると思いますが、一般人の賢さなどたかが知れてるので、それをいかに生きやすさに変えられるか?というのが一番大事なんじゃないかと思うわけです。
では行きやすくするために賢さを使う、ということはどういうなのか、ということですが、例えば、自分の考えを人間関係に当てはめて試行錯誤を繰り返し、とにかく出力に焦点を当てるとか、だと思います。
考える能力を尊重する人はとにかく「考えられた」ことに焦点を当てがち。別に考えられるかどうかは賢く生きるためにはどーでもよくて、それは手段に過ぎない。だから、考えた結果、どうなの?っていうことろが一番大事なんだと思うわけです。
あと、考えなくても幸せそうな奴についてですが、羨ましすぎます。正直、考える奴って賢そうでかっこいいと捉えられがちだと思いますが、考えずとも生きられる方がよっぽど楽やと思います。
だから、考えないといけない奴っていうのがいて、僕らは考えなくてもええ奴と肩を並べて生きれるように頑張って考えてるわけです。
考えないといけない奴なのに、思考を放棄する人がいますが、それは絶対やったらあかんと思ってます。
僕は考えないといけない奴の中で一番うまく生きたんねんと、思っております。
この星に生まれたのだから、この星で暮らしましょう。そして一番綺麗な花を咲かせましょう。カリスマ感えぐいねぇ〜
(追記)よくよく見返したら「若いこと」に関しての言及が無いというミスを見つけたので書き足します。ごめんなさい!!!
若くて賢い、というと、なんか天才感あるというか、一つ抜けてる特別感みたいなのがあるように捉えられがちがですが、別にそれは「人と違うだけ」であって、何の役にも立たない、むしろ生きづらささえ生んでしまっている。若さ故に考えている奴が周りにいなくて、孤独を感じる。かっこいいとかじゃなくて、苦しい。辛い。だから、これから抜け出すためには、「考えることがかっこいい」なのではなく、「賢く生き抜くことがかっこいい」という定義に変えるべきなのだと考えたということです。
確かにこの賢さがあったから、いい学校に行けたし、勉強では困らなかったけど、別に僕は勉強ができる人間になりたいわけじゃなくて、日々を楽しく過ごしたいだけ。
賢さがエンタメになるくらい突き抜けてたら良かったんですけど、そんなの宝くじに当たるくらいの確率だと思うので、僕のような考える凡人はこうやって生きやすさに変換してなんとかしていこう、という話になったという訳です。
ありがとうございました。