「何者にもなれなかった」同志へ! 社会運動に夢はありません
神真都Q裁判の被告席にいたロスジェネたち
今週6日、反ワクチン団体「神真都Q」の初公判がありました。東京ドーム、新宿、渋谷のワクチン接種会場や病院に侵入した5名が建造物侵入罪に問われた裁判です。詳細は拙稿をどうぞ。
被告5人のうち4人がいわゆるロスジェネ世代であることが印象的でした。被告はリーダーの岡本一兵衛こと元幹部の倉岡宏行(43)。以下は年齢順で中川昇被告(65)、平野博被告(49)。三輪麻希子被告(49)、高野珠里被告(41)です。
検察が読み上げた起訴状の経歴からして4人の人生は日当たり良好とは言えません。倉岡宏行被告はVシネマを中心にした元俳優ですが、ご本人に申し訳ないけれど「俳優」崩れのレベルです。
「子供のため」「ワクチン接種は殺人」
こういって彼らはワクチン接種会場を突撃しました。神真都Q内で言うところの「アライアンス活動」という直接行動です。相手は自治体役職者や首長ということもあります。彼らよりも社会的立場が高い人たちが首を垂れるという光景。没個性的な人生で経験したことがない高揚感を得たはずです。
社会運動は高揚感とコミュニティ
いわゆる社会運動はこの「高揚感」抜きに語れません。これに関わる多くの人が無給・ボランティアですが、得られる対価が「高揚感」です。
社会運動に従事する人々には攻撃的、高圧的な態度が散見されます。それも高揚感に由来します。その中心に中年・高齢者がいる。
10、20代は受験やスポーツ(部活動)など非常に明快な「モチベーション」を持てます。また未来が見えない分、不安もありますが同時に「夢」や「希望」をデザインできる余地があります。
ただ年を重ねるうちに夢や希望を持ちにくいものです。でも仕事や育児、趣味、多くの人は日常生活の中で喜びを見出していくものでしょう。しかしそうではなく「何者にもなれなかった」と感じ始める人も一定量存在します。
自分も悲しいことですが、何者にもなっていません。ただ「何者にもなれなかった」と感じる人と違うのは日々の生活の中で小さな目標や喜びを見出しています。
しかし「何者にもなれなかった」と不遇感を持つ人の中で少なからず社会運動に身を投じる人がいます。
もちろんその人たちなりの「社会正義」があったことでしょう。しかし多くの場合のモチベーションは先述した高揚感、そして「コミュニティ」目的も重要な要素です。社会運動、特にイデオロギーが関わる組織の場合、会社組織・地域社会にはない特別な「連帯意識」を持てます。
特に孤独感がある人には貴重な社交場となります。仲間といる時の安心感、しかしコミュニティを離れた時の不安感は計り知れません。特に全く自分と異なる価値観、主張に直面した時にその不安感は増大するものです。
社会運動自体は市民の権利であり、運動によって社会環境が向上することも否定しません。しかし心の隙間を埋める「高揚感とコミュニティ」目的の社会運動参加なら悪いことはいいません。やめた方がいいです。
被告席の神真都Qのメンバーはおそらく後悔の念に駆られているでしょう。アライアンス活動で得た高揚感の代償。繰り返します。社会運動に何も夢はありません。
社会運動の事業化はマスコミ、行政、政党が微笑む時だけ
あるいは社会運動が職になる、事業化、収益化できると錯覚する人もいるかもしれません。それも幻想です。
社会運動の事業化ができるのは諸条件がありそれは非常にハードルが高い。
まず大前提としてマスコミ、行政、政党、このうち2つ以上の協力、支援が必要です。
まさかワクチン接種会場に押し入る団体にこの3者が協力するはずがありませんね。会費を徴収する、ないしグッズ販売、こんな収益モデルもすぐに頭打ちです。
また普通の生活で「何者にもなれなかった人」が社会運動の団体に参加したところで結局のところ「使われる側」です。トップになることはまず無理。会社員ならばまだ社長や役員になる可能性の方が高いです。
しかし社会運動ではせいぜいデモ要員。では自ら一から社会運動団体を立ち上げますか? 残念ながらアナタの才覚では無理です。
またこのことは女性には言いづらいことですが、男女関係で不快な思いをすること、あるいはセクハラ、性暴行の可能性もあります。構成員同士の距離が密だし、申し訳ないけども日常生活が渇している男女が集まった場合、起こりえるトラブルです。
「何者にもなれない中年」の同志諸氏へ
それでもメディア、有識者は時に「社会運動の必要性」を説きます。まあ典型的な記事がありました。一例としてあげます。
もちろん社会問題に対する関心や興味を持つことは大事だと思います。ただそうした意思を社会運動で発揮しようにも結局のところ「コマ」の一部。インフルエンサーの肥やしです。
それでも身を投じてみたい人は否定しません。ただ休日にデモで仲間と声を挙げた高揚感や爽快感を得るだけで生活の本質部分の向上は意味しません。
何気ない日常生活の中で僅かな楽しみや温もりを見出すこと、またそれを見つける努力の方がよほど楽しいかもしれませんよ。お互い「何者にもなれない中年」だけどささやかな楽しみを見出す力は私の方があるかも、です。
偉そうにズラズラとすみませんでした。
ただ被告席で拘束具をつけられスウェット姿で憔悴した表情の神真都Qのメンバーたちを目撃して憂愁たる思いが去来しました。そこで思うところを述べてみました。
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