まともがわからない
すこぶる飽き性の私は、何度も繰り返し映画を見たり、本を読んだりはしないのだけれど、まほろ駅前シリーズは小説も映画もドラマも折に触れて見てしまう。
ドラマのエンディングに使われていたのが、”まともがわからない”だ。
私がまほろシリーズが好きな理由は普通からドロップアウトしてしまった多田と行天がまともであろうとする人たちにおせっかいをすることで知らずのうちに少しだけ日常が変化している点だ。そうでない話もあるのだけれど。
元通りにならなくても修復できるという言葉が何度つまづきそうになる私の背中を押してくれたことか。
日常はドラマのような劇的なことも起こらないし、かといって不幸せなこともそんなに起こらない。淡々と流れる日常の中で少しだけ風が吹いたような気がする出来事に少しだけホッとする。
疲れた時はそんな物語を誰もが欲してしまうのかもしれない。