「一応、東大です。」
※意図せず自分語り成分高めになってしまったので閲覧注意です。ごめんなさい。
この言葉、あなたは知っているでしょうか。
東大生が在学中や卒業後、出身大学を聞かれたときに答えるフレーズ、とされています。最近では死語になりつつあるようですが…
かく言う私も東大出身なのですが、実際にこのフレーズを使ったことがあります。
なぜ「一応」と付けるのでしょうか。客観的というより、自身の経験に基づく主観で書いていきたいと思います。
入学後に感じたギャップ
高校まで
私は北関東の出身で、公立小中高と、地方では至って当たり前なルートを辿ってきました。
東大に関わるエピソードとしては、中3の頃、担任か学年主任に「東大行っちゃえば」と言われた記憶があります。当時は高校入試後の結果待ちの時期だったので、「それどころじゃないわ!」としか思っていなかったです。笑
それまでの生い立ちを簡単にまとめると、1歳のとき両親が離婚しており、それ以来母子2人の家庭で育ちました。母は地元の、偏差値で言うと40前後の高校(普通科)を卒業して就職。土日休みと言いながら、土曜勤務も多く、同じ町内の祖父母家に預けられることが多かったです。
父親に関しては当然記憶がなく、学歴は知りません。父方の祖父母とは年数回お泊まりに行く関係性でしたが、中1で祖母が亡くなって以来交流は途絶えました。(調べたので父親の現在の職業、住所は知っています。まず会いませんが。)なので基本的には「ファーストジェネレーション」として言っても差し支えないかと思います。
少し長くなりましたが、要は地方の一般的な少し貧しめな家庭で育った人です。
公立高校に進学後、高1で東大受験を勧められ、無事に現役で理科一類に合格しました。決して裕福ではない家庭でしたが、母は中学までは書道やスイミング、英会話など、教育には投資をしてくれました。ですが、大学受験に関しては、地元に東大受験に有益そうな学習塾がなかったことや、金銭的な問題もあり、いわゆる独学での受験でした。(とはいえ、高校の教師陣には添削指導でかなりお世話になったので、一人だけの力と威張ることはできませんね。)
入学後 〜大きすぎた格差〜
大学入学後、まず感じたのは自らのありとあらゆる教養のなさでした。クラスやサークルには、もちろん名門校出身の学生がたくさんいたのですが、彼らは「勉強ができる人」ではなく、「勉強もできる人」でした。受験勉強に囚われず、様々な分野の知識を持っている人、音楽・芸術・デザインなど文化的な素養を持っている人、シンプルに容姿に秀でる人。受験勉強だけでなく、ありとあらゆる「上澄み」にいる人種が集う場だと感じ、隠しきれない劣等感を覚え、無気力気味な1年を過ごしました。
少なくとも、公立高校に通いながら給付型奨学金をもらい、大学では貸与型奨学金をもらい、今を生きるのに必死な私みたいな人は周りにほぼいなかった、と言っていいでしょう。
もちろん、大学生活で多くの友人を得て、今も彼らと交流を持つ人間としては、彼らもまた俗世を生きる現代人であり、悩みを持って生きていることを知っているので(一部俗世を離れた例外的天才あり笑)、彼らの存在を批判したりといった意図はありません。
「一応」に含まれるニュアンス
本題に戻ります。ここまで読めば「一応」に含まれるニュアンスは説明不要な気もしなくもないですが笑
現代の東大に対する世間のイメージは、もちろん尊敬・畏怖もあると感じていますが、「変人集団」のイメージもまた強いと思います。メディアでの扱いがそれを増長しているのは間違いありません。(少なくとも私は大学生というまだある程度保護されるべき若者たちに対する扱いとして間違っていると感じています。)
東大に対する無思考な批判には「東大生は勉強しかできない」「東大卒のくせに仕事ができない」などがあります。それの是非は言うまでもありませんが、この「勉強しかできない」に残念ながら私自身、該当している感覚があります。
なので私の「一応」には、「確かに東大に通っていたけど、たまたま勉強ができただけで、自分はただの凡人なので期待しないで欲しい」といった意味が強かったと思います。これは社会人になる今だけでなく、大学1年生からこうでした。当時は「東大に受かってしまった」みたいな感覚が強く、東大生を胸を張って名乗れなかったんです。
振り返ると
社会人になって思うのは、学生で何もできないのは当たり前で、勉強できるだけで胸を張って大学なんて言えばいいじゃん、ということでしょうか。安直な批判を浴びせてくる人はそこまでの人、と割り切って問題ありません。
社会人になった今では、できること・経験したことも増え、一時期の自己肯定0の時期に比べれば精神的にも安定したことから、大学を聞かれても普通に言えるようになりましたし、社会に出たら学歴は関係ないな、と思います。
悲しいことに、東大に頑張って入ったという事実が25歳になる代の今でも虚構な自信として自らを支えているのも事実ですが。
最後に少し話題が変わりますが、この言葉には私が体感したような教育格差が潜んでいるのでは、というのが個人的な意見です。
いわゆる「ファーストジェネレーション」への支援や、低所得層への教育機会の提供など、圧倒的に足りておらず、将来的な社会的な分断はこうしたところから生まれていくんだろうな、と感じています。
まとまりませんが、今日のところは一旦ここまでで。
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