【洋楽雑考# 29】〜 空に憧れて〜 ジョン・デンヴァー
皆元気?洋楽聴いてる?
何となくこの梅雨空のように気持ちの晴れない日々が続いているが、一応プロ・スポーツも観客を入れて再開するようだし、座席数を減らしつつコンサートも行えるようだ。
さて、今回ご紹介するのはアメリカン・フォーク、カントリーの大御所ジョン・デンヴァー。
1943年ニュー・メキシコ州生まれ。父親は米空軍で中佐の地位にまで登り詰めた人物で、B-58 Hustlerという軍用機の速度記録を持っていた。その父の仕事の関係で一家は引っ越しをする機会が多く、デンヴァー少年は友達作りで苦労したらしい。
11歳の時、祖母からアコースティック・ギターをもらい、音楽に目覚める。引っ越し先のアリゾナ州トゥーソンでは少年合唱団に2年所属、楽しく日々を送っていたが、その後越したアラバマ州モンゴメリーでは同時期に人々の心に影を落としていた人種隔離政策を目の当たりにし、ショックを受ける。高校時代を過ごしたのはテキサス州フォートワース、そこでも充実した生活は送れず、3年生の時に父の車を拝借し、カリフォルニアへ。ミュージシャン生活を本格化させるはずが...何と父親が知人のジェット機を借りて同州へ乗り込み、デンヴァーを確保。何とか高校を卒業するのだった。
その後、大学へ進学するが、ミュージシャンへの憧れは捨てられず、地元のクラブで演奏を続けていた。当時は本名であるDeutschendorfで活動していたのだが、彼に改名を勧めたのがフォーク・グループThe New Christy Minstrels のリーダー、ランディ・スパークス。人様の名前にケチをつけるつもりは全くないが、確かに覚えにくいわな。で、お気に入りの州コロラドの州都デンヴァーを名乗るようになる。
大学では建築学を学ぶ傍ら、The Alpine Trioというグループで活動していたのだが、1963年、遂にドロップアウト、LAに移住し、フォーク・クラブでのギグを繰り返していた。1965年The Chad Mitchell Trioに参加、このグループのリーダーだったチャド・ミッチェルの後釜ということで、直後にトリオはグループ名をDenver, Boise, and Johnsonに改めている。
1969年にはソロ・キャリアを追求するべくバンドを解散、10月に待望のソロ・アルバム「Rhymes and Reasons」をRCAからリリース。アルバム収録曲である「Leaving on a Jet Plane」はCash Boxチャートで1位を獲得、イギリスでも2位まで上昇。
実はこの楽曲、デンヴァーのアルバムから遡ること2年、67年にリリースされたPeter, Paul and Maryのアルバム「Album 1700」に収録されたもののリ・レコーディング。デンヴァーはアルバム・デビュー前にデモを制作しており、同楽曲は当時「Babe, I Hate to Go」というタイトルで収録、「Rhymes and Reasons」のプロデュースにも携わっていたミルト・オークンがPP&Mにレコーディングを勧め、最終的に同グループ最大のヒットとなった。当時タイアップという手法がどれだけ浸透していたのかはわかりづらい部分もあるんだけど、同楽曲はUnited AirlinesのCMに使用されていて、YouTube で今でも見ることができる。
シングル・ヒットこそあったものの、RCAはデンヴァーに予算を十分に使ったとは言い難く、彼は中西部を中心にほぼ手作りのツアーを行い、同レーベルとの契約を持続させることに成功、1970年に2作のアルバムをリリース。
そして、一大転機となったのが、71年の「Poems, Prayers & Promises」。同アルバム収録の「Take Me Home, Country Roads」は全米2位の大ヒットを記録した。ずっと同楽曲の邦題は「カントリー・ロード」だと思ってたんだけど、正式には「故郷へかえりたい」なのね。欧米のみならず、ここ日本でも数多くのアーティストがカヴァー、中にはあのキャンディーズが歌うヴァージョンまで存在する。昨年開催されたラグビー・ワールドカップの日本チーム応援歌としてご記憶の方もいらっしゃるはず。
ちなみに同時期、1970年にデンヴァーのマネージメントに就いたのがハリウッドの大立者ジェリー・ワイントローブ。実は「カントリー・ロード」(で、進めます原稿)の初回プレス盤はノイズ、歪みが入っていたらしく、ワイントローブは同楽曲をリイシューし、コロラド州デンヴァーでキャンペーンを張り、それが同楽曲のヒットのきっかけとなった。また、彼はデンヴァー主演のTVショーを多数プロデュース、大成功の立役者となった。ちなみにデンヴァーはその感謝を表すため、ロールスロイスをワイントローブにプレゼントした。"何年か前には2人ともバス代さえ持ってなかったのにね"というのはワイントローブのコメント。現代に通じるモダンなツアー・マネージメントを始めたのも彼と言われており、デンヴァー以降、エルヴィス・プレスリー、フランク・シナトラ、ボブ・ディラン、レッド・ツェッペリンなどを手がけ、正にアメリカの音楽産業を牛耳る存在となった。その後、彼はその手腕を映画でも発揮、「Ocean's Eleven」シリーズなどでもその名前を見ることができる。 さて、その後の3年ほどがアーティストとしてのデンヴァーのピークと言えよう。
1972年リリースのアルバム「Rocky Mountain High」は初のトップ10入り(4位)、同タイトルのシングルも9位まで上昇。翌73年には「Greatest Hits」、74年に「Back Home Again」、そして75年の「Windsong」は3作連続で1位を獲得、シングル・チャートでも「Sunshine on My Shoulders」(「Poems」アルバム収録)、「Annies Song」(「Back Home」)、「Thank God I'm a Country Boy」(オリジナルは「Back Home」に収録されているが、これはライヴ・ヴァージョン)、「I'm Sorry」で1位を記録している。
また、その功績を称え、1983年、84年にはグラミー賞の司会を担当している。政治活動、人道主義活動にも熱心で、39代アメリカ大統領ジミー・カーターはデンヴァーの親友の1人。AIDSへの啓蒙活動や、アフリカの飢餓問題など、その活動は多岐に渡る。で、1985年にリリースされたUSA for Africaの「We Are the World」に参加を目論むが、残念ながらその願いは叶わなかった。
家系も関係するのか、その後デンヴァーの活動に"空"が関わってくる。何てったって、生まれはUFOファンなら誰でも知っているロズウェル(UFOが墜落、軍がエイリアンの遺体を保存したという場所)だし。その空への憧れはスペース・シャトル計画への参加という形で実現する。 1985年には一般市民として宇宙飛行テストの最終選考まで残っている。しかし、翌年打ち上げられたチャレンジャー号は爆発事故を起こし、乗務員7名が死亡。同船に搭乗していた女性教師クリスタ・マコーリフを含むクルーに「Flying for Me」という楽曲を捧げている。
そして、1997年10月12日、自家用機を操縦中に事故を起こし死去。まだ53歳という若さだった。
彼自身は2,700時間を超えるパイロットでもあったのだが、事故以前の数年間に飲酒運転で数回逮捕されており、連邦航空局からは事故の前年に"アルコール、薬物による影響が認められる"として、事実上の免許停止を受けている最中の事故であった。しかし、遺体からはそのどちらも検出されていない。結局、事故原因としてデンヴァーの機体への不慣れが挙げられている。
当時日本で彼の訃報って、ほとんど報道された記憶がないのだが、単にオレがTVとか見ていなかったせいなのかなぁ。歌い継がれる名曲の数々を遠い空からあの人懐こい微笑みで見ていてくれると信じたい。
ではまた次回に!
※本コラムは、2020年7月13日の記事を転載しております。
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