【洋楽雑考# 28】 〜 曲も残す、名も残す〜ビル・ウィザース
皆元気?洋楽聴いてる?
しかしねぇ...
"全世界で大流行"...ランバダだ、マカレナだ、だったらこちらの気持ちも和むというものだが、未知のウィルスって。オリンピックはもとより、日本国内の夏までのイベントは木っ端微塵、ライヴハウスは営業停止、アーティスト、関係者たちの苦労は文章にできないくらいだ。
2020年という1年が丸々"なかった事"になってしまうようで怖いなぁ。国内感染者数も若干減少して来たようで、このまま収束に向かってくれれば良いのだが。
さて、今回ご紹介するのはブラック・シンガーのビル・ウィザース。
1938年ウェスト・ヴァージニアの生まれ。幼少期に音楽と縁があったというエピソードはなく、9年の歳月を米海軍で過ごしている。
1965年の退役後、カリフォルニア州サン・ノゼに移動、ロッキード社でエンジニアとして働いていた。そんな彼の人生の転機となったのが、週末を過ごしていたクラブで聞いた会話だった。そのクラブに出演していたシンガーがルー・ロウルズだったのだが、オーナーは"週に2,000ドルも払っているのに、彼は遅刻ばかりだ!"とこぼしている。"たった数曲演奏するだけで、そんなにもらえるなんて。"と驚いたウィザース。オレも一丁やったるかい、と安いギターを買い、コードを覚え、楽曲を作り始める。不純と言えば不純な動機だが、そこから才能が開花するのだから人生面白い。
ロスに拠点を移し、ヒューズ・エアクラフト社などで仕事をしつつ、デモ制作を開始。その中の一本に目を付けたのが、"ブラック・ゴッドファーザー"の異名を取り、その後の音楽産業に多大な影響を与えたクラレンス・アヴァント(彼のドキュメンタリーが昨年Netflix で配信されている)。
1969年に彼が設立したSussex Recordsと契約、ブッカー・T.ジョーンズをプロデューサーに迎え、アルバムのレコーディングを開始する...のだが、程なくしてアヴァントの持つ予算が底をつき、数ヶ月の間、ウィザースは他の仕事をしつつ(アーティスト契約時にそれまでの仕事を辞めなくても良いという条件を出していた)状況の改善を待っていた。
そして1971年7月、シングル「Harlem」リリース。しかし、ラジオDJたちはB面に収録されていた「Ain't No Sunshine」に食いついた。あれよあれよと言わんばかりに同楽曲は大ヒット、Billboardシングル・チャートで3位まで上昇、同年のグラミー賞ベスト・リズム&ブルース・ソングを受賞(72年発表)、アルバム「Just As I Am」も成功を収めた。
寂しげなメロディが実に印象的な「Ain't No Sunshine」なのだが、オレ個人はオリジナル・ヴァージョンではなく、第2期Jeff Beck Groupのカヴァー(ライヴで演奏していた)で初めて耳にした。てっきりベックのアルバム未収録楽曲なのかと思ったまま、軽く数十年経過。
で、2016年にTV放送されていたアメリカFX社が製作した「American Crime Story」シーズン1、O.J.シンプソンの殺人事件、その裁判をテーマにした「The People v. O.J.Simpson」(主演:キューバ・グッディングJr.)最終話で同楽曲と再会した。
"あれ?あれ?これ、誰の曲だっけ?
あ、ジェフ・ベックだ!"
とようやく思い出せたものの、どう聴いてもベックじゃない。考え込む事数十分、結局ネットの力を借り、これがビル・ウィザースの歌うオリジナルなのだと知った次第。言い訳ではないのだが、この楽曲、ベック以外にも多くのアーティストがカヴァーしており、その中にはあのマイケル・ジャクソンも含まれる(1972年リリース)。
翌1972年リリースのセカンド「Still Bill」からは全米1位を記録した「Lean on Me」、そして「Use Me」(同2位)というヒットを連発、10月にはカーネギー・ホールでライヴを開催、その模様は翌年リリースのライヴ盤で聴くことができる。
スタジオ3作目「+'Justments(アッド・ジャストメンツ)」は74年の作品なのだが、同時期からSussexの経営は悪化し、そのままアヴァントとの訴訟に巻き込まれる。また、私生活でも女優デニス・ニコラスとの関係が悪化、結局離婚へ。
その後Columbia Recordsと契約を結び、75年の「Making Music」から79年の「'Bout Love」まで4作のアルバムをリリースするのだが、Sussex時代の成功に追いつくことは出来なかった。
また、Columbiaとも契約でトラブルとなり、ようやく本人名義の作品「Watching You Watching Me」リリースが実現するのが1985年...すっかり疲れてしまったのか、そのまま引退してしまう。
その当時、彼は"Blaxperts"という造語でレコード会社の人間を批判している。"ブラック専門家(気取り)"というニュアンスなのだろうが、いくらデモをプレゼンしても、"売れない"という彼らの判断で、相当にプライドを傷つけられていたようだ。
しかし、彼がラルフ・マクドナルドらとグローヴァー・ワシントンJr.のために書いた「Just the Two of Us」(1981年リリース)は大ヒットし、グラミー賞ベストR&Bソングを受賞、また1988年にはClub Nouveau がカヴァーした「Lean on Me」も同賞受賞。
ある意味、"業界の犠牲"とでも呼ぶべき存在だったのだが、人々の記憶からその名前、楽曲が消えることはなかった。
最終的に2009年まで時間を要したのだが、彼のドキュメンタリー作品「Still Bill」公開、そして2015年にはR&R Hall of Fameで殿堂入り。
随分と時間を要したのだが、ようやく相応しい名誉を手にするのだった。とは言え、彼自身は音楽産業から完全に引退したことを全然後悔していないらしい。
それはそれで少し残念な気もするんだけどね。そして2020年3月81歳で逝去。
彼の音楽を聴いていると、いわゆるブラック系の"押しの強さ"、"アク"が薄い印象を受ける。それゆえカヴァーしやすいのかな。ジェームス・ブラウンとかと、スタイル全然違うもんな。さらりとしたブラック・ミュージックでも言うべきか。ちょっとフォーキーな印象もあるよね。
しかし、2016年まで、「Ain't No Sunshine」はジェフ・ベックの曲だと半分くらい信じていたオレ...
まだまだ勉強である。
ではまた次回に!
※本コラムは、2020年6月12日の記事を転載しております。
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