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昭和のデザイン制作会社
イラストレーターと云う職業は一九七〇年代に入ってから徐々に社会で認知されてきた職業と記憶している。一九六〇年代から外国企業の進出による経済活動から広告の分野において大きく様変わりしてきたのと時を同じくして、それまでは画家の兼業的挿し絵や広告の絵は、イラストレーターという専門的な職業に切り替わってきた。
文化のひとつの担い手であるイラストレーターは、二十一世紀を迎えますます重要な位置にあるのは確かなようだ。この項目から語られる「振り返る」は一人のイラストレーターの歩き方を綴ったもので、これからのイラストレーターの参考に、イラストレーションとは何かを知る一つの手がかりになればとの思いが込められている。
ー九六三年頃未だイラストレーターという職業の言葉もなかった時代だった。当時はグラフィックデザインを商業美術と呼び、現在のイラストレーションは出版社では挿し絵画家が存在し、広告の世界では商業美術家及び画家が依頼されて描いていた。
私は当初からグラフィック デザイナーやイラストレーターになろうとは考えてもみなかった。はじめての就職は八重洲口、ブリジストンビルの後側、昭和通りに面したタイプライターメーカーの会社へ勤めて三ヶ月後新聞の三行広告に「絵の好きな人募集!」の広告を見つけた。この会社は勤務先からそんなに遠くなく銀座2丁目の裏側、昭和通りを越えた新富町にあった。私は興味をそそらせ面接に行くことにした。お昼休みを利用して行ってみたら印刷屋さんの屋根裏部屋で社長と社員の二人だけの会社であった。しかし、社長の人柄も良く、採用したいとの社長の言葉であった。
「今勤めている会社がありますので、勤めるとしたら三ヶ月後になりますが、ちょっと考えさせて下さい」
社長は「じっくり考えて決めて下さい」とやさしく言われた。
お昼休みも終わり、会社に戻り何時ものように仕事をして一日の勤務も終わり帰路についた。帰路の電車の中で面接に言ったデザイン会社のことを考えていた。「私の勤める会社ではないな」と何故か思ってしまう。それは私が勤めるにはあまりにも小さすぎる会社だったからかも知れない。翌朝、会社へ行く電車の中で閃いた。「そうだ!俺が会社を大きくすれば良いんじゃないか」自分自身、頷いていた。