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少年期 2

姉と一日スキーで遊んで、さっき迄の寂しそうなひろの姿はどこにもなかった。このような思い出を残した子供達への贈り物は昭和二十年のお正月が最後になった。風邪をこじらせていた父が正月休みを終えて勤務地へ戻った後昭和二十年八月終戦前日に肺炎で亡くなった。父の思い出はたったひとつの思い出しかなかった。それは、父は師団司令部から馬で帰宅していた。帰る時間を見計らって町角で待ち、馬を引いて来た從卒に馬に乗せてもらい父に抱えられながら家に帰って来た思い出だけだった。

学校は夏休みに入り戦争もしくなり我が家では西目屋村の鉱山の所長として勤めている叔父さんを頼って疎開することになっていた。母や姉、兄はその準備で忙しかった。

僕と直ぐ上の兄は学校は夏休みだったが西目屋村の学校はまだ夏休みになっていないということで転校手続きをとり村の国民学校へ入ることになった。ある程度疎開する支度の準備が出来上がった夜、突然サイレンの音が鳴り響いた。あわてて電気を消して防空壕へ避難したが、しばらくして避難解除のサイレンが鳴り響き何事も無く「ほっ」として部屋に戻った。

敵機に空襲されないよう部屋の中は電球の明かりを黒布で覆い光が外に満れないようにした薄暗い部屋で本を読み始めていた。暫く本を読んでいたが北側の障子が赤く染まっているのでびっくりして障子を開けて窓から覗いてみたら北の空が真っ赤に染まっていた。音は何も聞こえず光と燃え広がる赤い炎はしーんと静まり返った暗闇の空を赤く染めあげながら町を焼き尽くしていた。

赤い炎に照らされた焼夷弾は無数に投下され日本軍の敵機を探す投光器の光がただむなしく次々に投下される焼夷弾を鈍く浮き上がらせていた。

我が家の二階から眺める景色は青森の街を包み込みながら横一線に広がる赤い炎を見せてその恐怖からか弘前の街を音の無い恐怖の世界に導いていた。僕は手すりにつかまりただ恐怖でうち震え声も出せず、手すりをカタカタふるわせながら青森の街が燃え広がる様子を眺めているだけであった。

僕の家はおじいさんが開いた料亭で、また父が建てたその家は天井が高く近辺でも高さのある家屋だった。青森市は大分離れているが、高い建物や邪魔になる建物が周囲になかったために空襲の恐ろしさを自分の目で確かめることが出来た。翌日、僕達家族は逃げるように西目屋村に疎開した。

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