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少年期 1
「画歴」及び「振り返る」をまとめて自分自身とは何かを考えさせられた。
私は東京生まれで三才の頃、父の転勤で青森県弘前市は第八師団司令部があり弘前市に移り育った。弘前市は父の実家であり、おばあさんが未だ健在だった。父は建築家で師団司令部つきの軍属であったためか転勤が多かった。
私は「絵」の世界だけで生きてこられたが、建築家の息子だから少しは遺伝しているのかなと思ってもとても不思議に思われた。「なぜか?」というと自分にとって美術に対して才能があるとは思っていなかったし親兄弟誰もが絵の才能があると認めた人は誰も居なかった。
小学三年生、昭和二十年終戦間近の五月頃だったと思う。担任の先生から国のために汗水流し一生懸命働いてくれる炭坑のおじさんに絵と手紙を出したいから「絵と手紙を着いてくれ」と言われ描いた絵と手紙に対して大勢の炭坑夫から返事のお手紙を頂いて嬉しかった記憶が残っている。八月二十日、終戦を迎え新しい時が始まろうとしている時代を迎えて教科書の無い学校では畑作りと映画鑑賞に費やした学校生活の日々を送っていた。
翌年四年生の秋、担任の石戸谷先生から文化祭の展覧会に絵を出品してくれと頼まれたが内心いやでしょうがなかった。それから数日後、朝日新聞にナチスの捕虜になっていたユダヤ人の記事が載っていた。この記事を読んで、すぐ画用紙に鉛筆で優しい目をしたユダヤ人のおじいさんの絵を描きあげて先生に渡したら無
言のまましばらく眺めていたが「この絵は展覧会に出品はむずかしいなぁー」と独り言のように話していた。文化祭当日、絵を展示しているコーナーに行ってみるとそこに貼り出されていたのは授業中に描いた絵であって、あの優しい目をしたユダヤのおじいさんの絵では無かったのがとても淋しかった。
僕の家族は八人兄弟で、下から二番目の六男坊として産まれた。
我が家では普段子供の欲しがる物は買うということはあまりなかった。一年に一回、子供の欲しい物はお正月に貰うことができる。しかし条件があった。十二畳の部屋に子供が一列に並び前には父親と母親が座り、母が「さあー、通信簿をお出し」子供達はめいめいに通信簿を母に渡した。母は黙って受け取り父に手渡すと父はひとりづつ順番に通信簿を眺め、名前を呼びながら各自欲しかった物を手渡していった。僕の順番になった時父は険しい表情を見せて「ひろし、この成績では何もあげられんなー」僕の通信簿には「良」が三つもあったのだ。兄弟みんなは全優(この時代の成績評価は優、良、可の三段階に別れていた。今の五段階なら五は優と同じ)の通信簿だった。
何も貰えなかった僕を見ていた姉は「ひろ、小学校の校庭に行こうか」と声をかけながら貰ったばかりのスキー道具一式を抱え小学校の校庭にやって来た。
スキーをケースから取り出すと「さあ、足を入れて」僕は長靴を履いた足をスキーの上へ乗せるとバンドを締めて「ストック持ってね」と言うと坂のない平坦な校庭をストックの先っぽを両手で持ち上げて雪の中を走り出した。