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少年期 5
教えてくれるおじさん達は大学の教授だったり高校の先生だった。このことは母の知ることとなって、物凄く叱られたがもう、中学三年になっていた。中学三年生までは友達と遊ぶことなく想い出も少なかったが高校三年迄の勉強をひと通り終えていた。
しかし僕の心に変化が起きていた。それは父が亡くなって六年、財産を売りながらの生活。子供心にも経済の心配から、寮生活のある商船高校では経済負担が大きすぎる。親に迷惑をかけられないと試験日が近づくに従って悩みが大きくなっていた。いよいよ、商船高校の試験日になった。悩んだあげく「行ってきまーす」と声をかけて家を出たが試験場ではなく公園へ来ていた。
夕方迄公園で過ごし家に帰ったら四男の兄貴から「受験してこなかっただろう」とばれてしまっていた。家族の愛情なのか誰一人試験の話題に触れてこなかった。翌年、兄を頼って上京し一年遅れて芸術学部のある都立高校へ進んだ。高校へ入学し、高校の勉強は、中学生の時と卒業後一年間である程度は終わっているので、知っていることを習う授業は苦痛であった。二年生から授業中でも構わず図工室で絵を描く日課が始まった。
中間試験と本試験のどちらかには必ず出席して落第だけはしないように勤めた。学校の先生たちは東京藝術大学へ入ってくれるだろうと期待をしてきたが、生意気な高校生はその期待を裏切って社会へ出てしまった。昭和時代、クロッキー研究所は身近の所にあって気軽に人体の勉強ができた。一週間に二度、山手線の駒込駅近くと新橋内幸町の研究所へ通っていた。三十代から四十代の人達が中心で高校生は珍しく僕一人、図々しくモデル相手に描いていた。
新宿には画家の集まる喫茶店「風月堂」、演劇を勉強している俳優の卵達の集まる場所が風月堂の近く、新宿三越の裏手、うろ覚えの記憶では木の階段を下りて今風で言えばカウンターバーのようなお店の「どん底」があった。
画家の集まる風月堂では芸術論に花を咲かせて飽きると近くにある俳優のたまり場「どん底」へ行ってはよく議論した想い出が残っている。