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お気持ち投稿で承認を得る世界で生きてはいけない

昔、ものすごく健康に良い商品を作っている会社さんと、その社長が好きで、商品を買って、セミナーにも参加していたことがある。
怪しいサプリメントとかじゃなく、人間工学に基づいて考え抜かれた商品で、ほかにないものでとても気に入っていた。

今はその人の発信も見ていない。
変わらず、商品はいいものだと思っている。
でも、応援したいという気持ちになれない。

Facebookのある投稿がきっかけだった。

突然「もう限界です」というタイトルをつけて
怒りや、お客様・読者を責める感情でいっぱいの文章が投稿された。

「こんなに頑張って作ってきたのに、こんなにいい商品なのに、どうして買ってくれないのか。買ったら絶対に良くなるはずなのに!!」
「みんなのために開発してきたのに」
「わかってもらえない、わかってくれない」
「もう疲れてしまった」
「このままでは会社も存続できない」
「みんなが応援してくれないから」
「口では応援してますとかいうくせに買ってくれない」
「いい加減にしてほしい」

そんな言葉が並んでいた。
後半は、でも、自分に原因がある、頑張っていかねばという
自分を奮い立たせる文章で締められていたけど
はっきり言ってドン引きだった。

いや、商品開発して売っていこうという人がそんな発信するって
ダメすぎるでしょ。
ただ、プロモーションうまくいってなかっただけの話。
相手のことじゃなくて、自分の想いを載せたお気持ち表明で
「わかってくれないお客様が悪い」
しかも、今まで買ってくれて応援もしてくれた人たちに対して。

主語でかくしたら燃えそうだけど、女性ってそういう
「感情をあらわにする」「自分の辛い気持ちや頑張っていることで人の気を惹こうとする」をやってしまいがち。
そういう時、コメント欄に残っていくのってどんな人だと思う?
いい人の顔したい、ことの重大さをわかっていない人たちからの
「気持ち届きました( ;  ; )」
「応援しています!」
「先生、ついていきます!」
そんなものばかり。
「それはまずいよ」って咎めてくれる人はいない。
静かに離れていく。


感情は必要なもの


感情や自分語りがダメというわけじゃない。
私はnoteにほとんど全て自分のしてきた経験を書いている。
感情も乗る。
でも、読む人が自分ごととして何かを感じるように昇華した状態で書いている。
自分語りや、ちょっと言いたいことが長くなった時には、そこは全部削る。
自分が頑張ったことを認めてほしいとか、いいねが欲しいとか(いや、スキは届いた証拠なので多くつくように書いてますが、承認とは違う)そういうことはない。
承認欲求がないわけじゃないけど、承認欲求の滲み出る文章は面白くないから書かない。

「 自分のことをわかって欲しい」
「頑張ったことを認めてほしい」
が滲み出ている文章って、どんなに立派でも私はそれをよしとしたくない。

そこで「頑張ったね!」「素晴らしいね!」で賞賛されると何が起きるって

苦しい思いをして頑張った!正しいことをした!
をしないと人から認められないっていう回路が自分にできて、そこから抜けられなくなってしまうんだよ。

そういう文章や行動からは「私は正しいんだから認められるべき」っていう圧が出てしまう。直接書いていなくても、他者を責める雰囲気も出てしまう。
周りは表立ってNGを伝えられない空気感になってしまう。
周りには「そんなことないよ」「それでいいよ」「頑張ったね!」 という気休めの言葉を、考えることもなく言ってくれる人だけが残る。

そのまま、そこで成功体験を得てしまったりしたら、ずっと苦しいんだよ。苦しくないとうまくいかないって思っちゃう。
私がやってきたから、わかる。

だから、冷たいと思われても同調しないようにしている。
「頑張ってるね」で仲良しこよしでしあう応援は毒だ。
馴れ合い。

「自分は悪くない」という恐ろしい壁

私自身がずっとそうだった。
起業する前からずっとやっていたブログ。
特に起業して、当時周りにいた人たちとのコミュニティのSNSとしても機能していたアメブロでは、お気持ち投稿はすごくウケが良かった。
傷ついたり、心の闇を露わにするようなブログを書けば
仲間内からコメントや「見たよ!」という
励ましのメッセージがきたりする。
めちゃくちゃ気持ちいいわけではない。
そうやって、時々誰かの反応を取らないと不安だった。
気づけば、時々そうやって人の承認をもらうことが癖になっていた。
いつもではない。
イケイケドンドンの時、仕事がうまくいっている時には
仕事の話や、強気のブログ。
でも、なんだか行き詰まっている時
そして、それにちゃんと向き合うのが嫌な時
決まって、感情的な人の気を惹くような
仕事に関係ない記事を書いていたように思う。
当時仕事がちゃんと前進していたか?というと
お察しである。

今こうして思い返しながら書いてもゾッとする。

目が覚めたのは、当時いたコミュニティで
最初自分が金魚のフンのように慕っていた人と決別して、抜け出してからだった。
当時、その相手のことを心から恨んでいた。
その相手のせいでコミュニティを抜けることになった
先生たちも、友人も、誰も庇ってくれなかった
自分は悪いことを一つもしていない
むしろ、自分の方が正しいのに。

自分は悪くないのに
こんなに頑張ってきたのに
ちゃんとしてきたのに

ずっとずっと、そう思っていた。

辛い出来事や、変わらなければいけない出来事が起きた時
変われない原因は、これだ。
「自分は悪くないのに」
そう思ってしまうことだ。

確かに、悪事ははたらいていなかったかもしれない
むしろ人のために正しい行いをしていた
頑張っていた(と自分では思っていた)

でも、それが「自分の人生にとって」良いことではなかった。
変に目立とうとして周りの注目を集めたり
自分が病んだ旨をブログに書き散らかしたり
今思えば、他者のことなんて全然考えられてない。
「自分」で頭がいっぱい。
わかってほしい 助けてほしい 認めてほしい
それが溢れ出ていたから、助けてもらえなかったのだと思う。

そして、そういう自分になった原因は、自分自身ではない。
たとえば親との関係、育ってきた環境
間違えた「正しさ」
そんな、自分が狭い世界の中で見てきたもので頭が固まって
いいと思っていることをしているのに、うまくいかない。

でも、しょうがないじゃん。
これがいいと思ってるんだから。
これしかわからないんだから。
こんなに頑張ってきたんだから
そのままの私をわかってよ

意地でも、自分の間違いを認めることはしたくなかった。
というか、間違えていることなんてひとつもないと思っていた。

当時私が間違えていたことは

・自分に自信がなくて、自分の力で判断ができなかったこと
・だから、影響力のある人の「いいね」が行動基準だった
・誰かの影響力に乗っからないと仕事なんてできないと思っていた
・私なんて輝くことはできないと無力感に苛まれていた
・そもそも「私が輝きたい」「人からよく見られたい」と思っていた
・自信がないと言いながら「本当は本気出したらめっちゃ有名になれる」とか思いながら、それにつながる行動すらしていなかった

という、自分にベクトルが向いていたこと。
だって、自己啓発の、スピリチュアルの世界では
「自分を最優先に」「自分を大切に」「自分のやりたいことは」
「もっとわがままに」
なんてことばかり向き合ってきた。

「自分を大切に」「わがままに」のもっと深い意味もわからないまま。

呪いを解くには、認めて謝ること


やっとその呪いを解くことができた(と思っている)のが
よくnoteで書いている、SUNABACOに出会った時だった。

メタ認知という言葉
正しい承認を得るべき場所
自分より他者のことを考えること
できない小さな自分を認めて、目立つ大きな魚じゃなくて、スイミーの一匹としてできることをすること

そんなのは、今まで「成功じゃない」と思ってきたことだった。
でも、SUNABACOに、代表の中村さんに出会って、かけてくれる言葉、時に厳しい発信をしながら、すべての人が自らの呪いを解いて変われることを信じてくれていることを感じて、学びの場で信頼できる人たちに出会って、できない自分の恥ずかしさと、それを助けてもらえるありがたさを知って
「私が」を手放すことができた。(と思っている)

ゆっくり、勘違いしていた自分、人の言葉を受け入れず井の中の蛙になっていた自分を認めて、1からやるべきことを積み上げられるようになった。

できないことももどかしいことも日々たくさんある。
それでもその場限りの承認をもらうことに逃げず、ただしっかり食べて眠って、また積み上げ続ける。

「ちゃんと謝る」という行為は、自分のためにすることだ。
それを受け止めて時間を使ってくださる相手に感謝をして
自分の人生を生き直します、という表明をさせていただくことだと思っている。

どんなに周りの人が考えてくれても
自分にかかった呪いを解けるのは、自分だけだ。

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