置かれた場所で咲くのは70代からで十分
置かれた場所で咲きなさい、と言う本があります。
奉仕の精神に満ち溢れた方の書いた本なので
それを実践するために生きるのは素晴らしいことだと思います。
でも
性差によって 搾取され 差別され続けた人には 厳しい一言です。
その場所から逃げることすらも否定されてしまうように感じるからです。
置かれた場所で咲かざるを得ない花のように
人間も「忍耐や我慢が大切」と
女が女を縛り付けるような言葉は 若い女性に向かっては 特に
言ってはならないと思いますし、
今は「逃げなさい」と言える時代なのだと思います。
まぁ 私のように 逃げても逃げても追いかけて来られるような人生もあるので
その場合は 諦めろという事なのか、と悟るしか有りませんでしたが。
それでも 自分の人生を諦めるのは 50半ばの今は 未だ無理です。
足掻いて 抗って 逃げ出して 立て直して
そういう人生もアリだと思っています。
先日、友人から言われ ハッとした事があります。
「奉仕と自己犠牲は 違う」と言われた と。
奉仕は させられるものではなく、
させられたと思った時点で 自己犠牲なのだ と。
学校教育の おかしい所は
道徳とか奉仕とか そう言う言葉で強制していることに
教師も気付いていないし 文科省も気付いていない。
奉仕の精神というのは 勝手には育ちませんが
親や身近な大人が 実践しているのを見て 自主的に学んで行くもので
それは 道徳心も同じです。
確かに 本来ならば 親が教えて然るべきなのかも知れないし
それが出来ていない状況だから
学校が 親に代わって教えている と言えば その通りかも知れませんが
周囲の大人が
道徳や奉仕という言葉を使う時だけ 織り目正しく行動し
誰も見ていなければ 目を背けたくなるような行いをしているのでは
子供が 悪い方を見て育ってしまうのは当たり前では無いでしょうか?
そういうダブルスタンダードが当たり前の世の中において
子供や若い人たちに 偉そうに説教などしても
冷めた目で「なに ふざけたこと言ってやがる」と返されるのがオチです。
せめて 自分はそういう大人にはなりたくない。
そう思いながら 日々 自分と向き合い 格闘しています。
サポートありがとうございます。自分の時間をゆっくり作り出すために、遠慮なく使わせて頂きます🙇♀️。