とは言えまだまだたくさんあるストッパー
街中のごみを拾うのに、躊躇したり、
わざわざ話題にすること自体が
もはや、自然体ではないなと思いました(>_<)
わざわざ、言うことなく、
それが自然、それが当たり前になるくらい
習慣づけをしたいなと思います!!
たかがごみ拾い
されどごみ拾い
どうも、私は終わりが見えない
永遠と続く頑張りというものに
モチベーションが
下がってしまうタイプです。
期限のあるゴールまでは
頑張ろうという気になるのですが、
やってもやってもやっても
終わらない。
永遠にやり続けなければならない
というものに、
やるせなさを感じてしまうのです(>_<)
それも言い訳なんですが(>_<)
どこまでもジャッジマン登場
『頑張って何かをする』
それがモチベーションとなり、
おのずとパワーがみなぎる人もいるのですが
私の場合は、『頑張る』というと
自分に鞭を打って、
ようやくどうにかこうにか
人並みに近付けるといったレベルです。
鞭打つ努力は、短距離走のように
長続きできないことに
今気付きました。
ということは、長く続けるためには
その事が、楽しく心地いいものであるなら
わざわざ鞭打って、
頑張る必要もないんですよね。
そして、鞭打つ頑張りというものは
責め心が出てくるものです。
自分に対しても、人に対しても。
責め心というものは、
これは良い、これはダメ
と、あらゆるものに対して
善悪のジャッジをしてしまいがち。
人に対して、ジャッジをするようになると、
自分に対してもジャッジをする。
最終的にそのジャッジが
自分を苦しめることになる。
ごみ拾いをすることも、
『善い行いだからしよう』と
思っていると、
できなかった時に自分を責める。
そして、ごみを捨てる人に対して
責め心を抱いてしまう。
ごみを捨てる人に対して
責め心を持っていると、
ごみを拾えば拾うほど
自分の怒りは増大していく。
それだと悪循環。
落ちているごみを拾った時、
私は喜びを感じた。
そうかぁ。
私はごみを拾っているのではなく、
拾わせてもらっているんだ。
このごみを拾わせてもらうことで、
私は喜びを感じた。
だからと言って、
ごみを捨ててもいいということではないので
こんな言い方をしてみる。
やむなくごみを捨ててしまった人に対して
怒りの目を向けるのではなく、
感謝の目を向けてみる。
それは、その人のためではなく
自分の穏やかな心を保つため。
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