”ヴォルィーニ虐殺”7 : 1943-4年 現西ウクライナ ;ヴォルィーニ,ガリツィアにおけるポーランド人に対する一連の虐殺事件 ~ に関する 他 ネット上のリンク先よりの引用・資料・コメント等
知名度の低い この”ヴォルィーニ虐殺”事件は、現在のウクライナ西部(過去にポーランド)の土地で1943-1944年に連続した、ウクライナ人によるポーランド人に対する数万~10万人規模の大虐殺である。
”ヴォルィーニ虐殺”が特異であることは、その猟奇性でもある。これを調べながら、(同じく”ウクライナ侵攻”後に知った)対日本人住民への残酷な虐殺である通州事件と共通する(と思った)。ただジェノサイドというならこれほど凄惨で猟奇的である必要はない。
ー ー ー
今回は、
ヴォルィーニ地方やガリツィア地方のポーランド人に対する虐殺に関する記述を、個人や団体のサイトからの資料やブログなどのSNSから追ってみる。
残された多数の写真はその残虐さの為 超閲覧注意なので直接貼らないが、リンク先で確かめられる。
これまでの”ヴォルィーニ虐殺” 6つの記事
この民族浄化事件について、ここまで6回の記事を書いたが、自分もこの事を知ったのは2022年だった。
1回目は主にWikipediaを切り取りながら 流れを辿った。↑
2,3回目は Wiki上の”ヴォルィーニ虐殺” 各国語の全コピぺ。
4回目は Wiki上のヴォルィーニの”血の日曜日” 各国語の全コピぺ。
5回目は Wiki上の隣接の東ガリツィア(小ポーランド)での虐殺に関する各国語の全コピぺ。
6回目は Wikiロシア語版より。ウクライナ側とポーランド側、それそれの時系列順で示した日歴 (日表)の全コピぺ。
※㊟
ここでもヴォルィーニの地名は
ヴォリン や ウォウィンのような表記の事がある。
※㊟2
この記事ではヴォルィーニ地方だけでなくその周辺も含む。
ー ー ー
地図で見る
時期により国境線が違う
~地図による位置の確認 ~年順
ポーランドは2度 消滅した歴史がある。(実際はもっと複雑)
第1ポーランド、
第2ポーランド(1918年 - 1939年)、そして
現在のポーランドは第3番目にあたる。
1921~1939年のポーランドの地図 (現在とかなり違っている)
第二ポーランドにヴォルィーニ県(1921–1939)があった。
(現在のウクライナ、ヴォルィー二州)
1939年の地図で、
←ベージュ色の所がポーランド、
その右(東)薄赤色がウクライナ→
中央の白線内が現在のウクライナに移った部分
下の地図は1939年から1941年、赤い線でドイツとソ連に分割された
↓ 国境線の変遷の地図がいくつかあるサイト
(カーゾン線 や オーデル・ナイセ線の位置も含む)
1937年の言語別ポーランドの地図
ポーランド語とウクライナ語は、
書く場合は文字が違うが
会話の場合は通訳無しでも分かる。
(日本で方言を聞くような感覚に近い。)
(ウクライナ語とロシア語も同様で、
お互いがネイティブ(の大人)なら理解できる。)
1943年の殺害数
”1943年にヴォルィーニ県でウクライナ反乱軍(UPA)と地元のウクライナ人によって殺害されたポーランド人。
地区ごとに記録された殺害者数 実際の数はさらに多く、約 100,000 人と推定されています。”
下の地図では
YouTube動画
さらっとわかる動画↓
動画に出てくる
ヤノヴァ・ドリナはこちら↓(ショート動画)
(この場所での説明を入れたのは、前回までの記事でこの地区は取り上げなかったため)
Wiki:”Janowa Dolina massacre” ↓ 概要のみ(google翻訳使用)
ヤノヴァ・ドリーナ虐殺は、第二次世界大戦中のポーランド占領中に、1943年4月23日にヤノヴァ・ドリーナ村(現在のウクライナのバザルトヴェ)で起こった。ナチスがポーランド第二共和国に侵攻する前、ヤノヴァ・ドリーナはヴォリン県のコストポル郡にポーランド国営玄武岩採石場の労働者によって建設された模範的な集落だった。この町には2,500人が住んでいた。ポーランド語で「ヤノフの谷」と訳されるその名前は、ヴォルィーニの森で狩りをし、狩りの後はホリン川の岸辺で休んだとされるポーランド王ヤン・カジミエシュに由来する。この町は第二次世界大戦中にウクライナ反乱軍によって破壊され、女性や子供を含むポーランド人の大半が殺害された。[1]
ヴォルィーニ虐殺の解説ページ
・20世紀ウクライナの歴史
ウクライナという国が20世紀にどのようにしてできたのかを考える日本語のページです
3.3 ウクライナ民族主義者とヴォルィーニ大虐殺
2012年2月17日
この件で知られる次の3つの説明サイト(翻訳日本語版)
・”ヴォルィーニ虐殺”
(注意!衝撃的な写真!!!)。
ここは超閲覧注意 ↓ 写真多数
ポーランドでは、彼らは1943年のヴォリンの悲劇の犠牲者を覚えており、キエフに電話して説明することを約束します
7月11日、ポーランドは、1943年にナチスドイツが占領した旧ポーランドの「東クレセ」の領土でいわゆるウクライナ蜂起軍(UPA)によって行われたポーランド人の大量虐殺の犠牲者を覚えています。
歴史学では、テロはヴォルィーニ虐殺として知られています。 7月9日日曜日から、ポーランド全土で、ヴォリン虐殺の犠牲者に捧げられた記念行事と記念イベントが開催されています。 彼らには、ポーランド国民の代表、創造的な知識人、現在の政治家、セイマスの議員、一般市民が出席します。 これらのイベントの間、ポーランド人に対するテロの原因となったOUN-UPA戦争犯罪者の栄光を終わらせ、ポーランド人のボリンに対するウクライナ民族主義者の行動を大量虐殺の行為として認めることを要求する公募がウクライナに行われます。
キリスト教の祝日の前夜に大量殺戮
1943年7月11日は、ポーランド人のヴォリンの悲劇の遠地点でした。 この日、167のポーランドの村が同時にウクライナの民族主義者によって攻撃されました。 ポーランドの研究者EvaSemashkoによると、わずか2日で4,000人以上のポーランド人を殺害しました。 同時に、残忍なUPA過激派の犠牲者は、主に女性、老人、子供、つまり抵抗できなかった人々でした。 全体として、1943年7月にヴォルィンシで約1万人のポーランド人がウクライナの罰者の手によって殺され、 合計金額ヴォルィーニ虐殺の犠牲者は3万人から8万人と推定されています。
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・”それがバンデラがしたことです”
この件で有名なサイトでもあるが
上と同様に超閲覧注意 ↓ 写真多数
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同じくロシア発信らしいのサイトより
・バンデラの残虐行為・ヴォルィーニ虐殺
(これも長く、閲覧注意写真が多い)
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noteより
2023年5月20日
短くまとめてある
1枚の悲しい写真 ↓
ヴォリン地域の母親と子供3人のポーランド人家族が、ウクライナ反乱軍に虐殺された。(帰宅した)父親が焼けた家の中で虐殺された幼児を抱いて、足の側には母親と2人の子供の死体が散乱した。
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TwitterXより
因みに、TwitterXでは、この手の投稿に自分がつけた 「いいね」はいつも外されている。(また外されるだろうけど、念の為、再度つけておく)
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・
≪ヴォウィンの悲劇 1943年≫ OUN-UPA命令に呼応して、UPA部隊や斧や鎌で武装したウクライナ人農民がポーランド人集落を襲撃し、無差別虐殺を行ったものである。その犠牲者は10万人にのぼるともされウクライナ人の残虐性、UPAに対する恐怖がポーランド人の記憶に深く刻まれることになる。
1943年の時点でウクライナのナショナリストは少数民族を樹木に縛りつけてリンチをしていた。写真はヴォウィンで虐殺されたポーランドの子供達とそれを追悼するメモリアル。現在もキエフの街頭でロマ人に対して同じ事がなされているのなら本当に恐ろしい。
ー ー ー
・
【ヴォルィーニの虐殺(1943)】 1943年7月11日、ヴォルィーニの虐殺が始まった。これは、ステパン・バンデラらOUN−UPAのウクライナのナチスたちが10万人以上のポーランド人を殺害した第二次世界大戦中に起きた最も大きな民族浄化作戦の一つだ。
2/11 彼らウクライナのナチスたちは、現在のウクナチ政権の英雄である。 1943年7月11日、OUN−UPAのウクナチたちはやってきた御主人様のヒトラー軍に協力し、前もって準備していた攻撃で全てのユダヤ人を殺害した。
それから、ポーランド人たちが逃げられないよう、彼らが入植していたコーヴェリ、ホローヒル、ヴォロディームィル=ヴォルィーンシキーの村を取り囲んだ。 午前3時、「ウクライナに栄光あれ、英雄たちに栄光あれ」の叫びとともに、闇の中でポーランド人の村人たちを襲いかかった。
斧、のこぎり、ナイフ、金づちなど、あらゆる物が武器として使われ、それで子どもや妊婦を含む何百人ものポーランド人の首を搔き切り、生きたまま焼き殺し、体を切断し、滅多刺しにし、裸にして皮を剥いだりした。
彼らの残虐行為の例として、14歳以下の子ども220人を含む529人の村人が殺害されたヴォラ・オストロヴィエツカ村、246人の子どもを含む438人のポーランド人が殺害されたオストルフキ村の例がある。 全ての虐殺が終わった後に、村々は跡形もなく燃やされた。
ヴォルィーニでステパン・バンデラらOUN−UPAのウクライナのナチスたちがどれだけの残虐行為を行ったのか、いくつかの画像が物語っている。生存者の証言では、ウクライナのナチスたちはドイツのナチスたちよりも残酷だったという。
ヴォルィーニで襲撃された村の一つで、ウクライナのナチスたちに3つに切断されたポーランドの少女の体が椅子の上に並べられている。 さらに残酷なのは、この写真はヴォルィーニ虐殺の記念絵葉書として、ナチス占領軍とそれに協力するOUN−UPAのウクロナチたちによってリヴィウで売られていた。
ー ー ー
他
・吉 岡 潤さん(ポーランドに詳しい) による論文(PDF):
「ポーランド共産政権支配確立過程における
ウクライナ人問題」
https://src-h.slav.hokudai.ac.jp/publictn/slavic-studies/48/yoshioka.pdf
(ヴォルィーニ虐殺についての言及が含まれる)
・短くて解りやすい記事
ー ー ー
青山貞一さん(独立系メディア)のサイト
・ヴォルィーニと東ガリシア大虐殺
※詳しい記述がある。下部に閲覧注意写真も数枚ある。
ヴォルィーニ(Volhynia)と東ガリシア(Eastern Galicia)におけるポーランド人虐殺は、ウクライナ蜂起軍(UPA)によるナチス・ドイツ占領下のポーランドで行われた民族浄化の一部である。
ヴォルィーニ、ポリーシャ、ルブリン地域と東ガリシアの地域で1943年に始まり、1945年まで続いた。[1] 大量虐殺のピークは1943年の7月と8月であり、犠牲者の大半は女性と子供だった。[2] UPAの殺害方法は特に残酷であった[3] [4] 。東部ガリシアで40.000人~ 60.000人が、ヴォルィーニにおける死亡は30,000~40,000人、両地域の合計で10万人 [5] [6] [7] [8]が犠牲となっている。(後略)
・ポーランド:
ウクライナに大量虐殺を認めさせたい
文化省副大臣は、1943年のヴォルヒンの虐殺は
大量虐殺の定義に合致し、キーウはそれを
認めなければならないだろう、と述べた。
2022年8月17日
・ガリシア人大虐殺
現在の西ウクライナで、ロシア人の
アイデンティティはどのように
抹殺されたのか
19 March 2023
ウクライナ人ナチス協力者の犠牲者の
集団墓地が発見される - ワルシャワ
ヴォリン大虐殺は1940年代にポーランド人
に対し行われた民族浄化作戦
2023年10月
・「弾薬を惜しんで斧を使った」
2022年11月26日
現代ウクライナのナチスの英雄が
WW2中に市民を虐殺した方法
ヴォリン(Volyn)では罪のないポーランド人が
何万人も虐殺された。今日に至るまで、拷問を
行った者達はその罪を咎められていない
(↑ と ↓ 、この2つの元ページは 類似)
・第二次世界大戦中に現代のウクライナのナチス英雄が民間人を虐殺した方法
2022年02月9日
ー ー ー
機械翻訳的な日本語版のサイトから
(機械による翻訳らしい日本語が分かりにくい箇所もあるサイト。ロシア語が元?らしい。)
この下3つは、自動翻訳の精度が低く、日本語がとても読みにくい物あり!
(保存用なので、読むに及ばないかも)
”TOP WAR”
(軍事ニュースサイトかも?)
・ヴォリン虐殺
2011年の記事
「ヴォリン虐殺」という言葉を聞いたことがある人はどれくらいいますか? これは、バンデラの過激派がポーランドのヴォリンや西ウクライナの他の土地に対して行った前例のない犯罪でした。 ヴォルヒニアだけでも、ソビエト政権を支援するためにUPA部隊によって破壊されたウクライナ人を除いて、バンデラの手によって約60万人のポーランド人が殺されたと考えられています。 さまざまな見積もりによると、合計で1 0から0万人のポーランド人が殺されました。
エスニッククレンジングは1942年に始まりましたが、翌年に最高潮に達しました。 ポーランドの村の住民は、女性も子供も惜しまずに虐殺されました。
・ガリシアの大虐殺 ~ ヴォリンの先駆者
2017年の記事
最初の項目は19世紀の民族の虐殺を解説。
つまり、1943年のヴォルィーニ が「初めてではない」という事らしい。
ー
・ヴォリンの虐殺
下部に生存者の証言も ↓
https://ja.ww2facts.net/36781-volyn-massacre.html
(保存用、日本語が分かりにくい)
略
ウクライナの解放後にNKVDの役員によって逮捕された「ルダ」という仮名で知られるUPAの野戦指揮官の1人、ユーリステマシュチュクは、以下から提供する抜粋を証言しました。
「1943年6月、いわゆる北部UPAグループのクリムサヴール(ドミトリークリャチコフスキー)の長は、ウクライナの西部地域に住むポーランド人全体の普遍的かつ広範囲の身体的絶滅について、OUNの中心的なワイヤを口頭で示してくれました。OUNのリーダーによるこの指令を達成しています。 1943年、多数のギャンググループの参加により、UPAはVolynの一部の地域で1万5千人以上のポーランド人を虐殺しました...私たちは全人口を一か所に追い込み、それを囲み、虐殺を開始しました。タワウには、すべての死体を、それらをダンプし、地球に覆われ、大きなピットを掘る人が住んでいない。私たちは火を燃やし墓の上に、この恐ろしい行為の痕跡を隠すために。だから我々は完全に小さな村や集落の数十を破壊し...」。
OUN治安局長のニコライ・レベドはこのように彼の殺人を助言した。「私たちは数に興味がなく、私たちは1万から10万について話しているのではなく、老人から子供まで、1対1ですべてのポーランド人について話している。人々がここに住んでいたことを私たちに思い出させないように完全に破壊するために。」
バンデラは、すべての外国人から管理された領土を完全に「きれいにする」ためにあらゆる努力をしました、そして、ほんの数人のポーランド人とユダヤ人だけがこの肉挽き器を生き残りました。この本に取り組んでいる間に、私たちは何十もの証言を見つけましたが、それらを公開しないことに決めました。必要に応じて、読者自身がそれらを見つけることができます...
この血なまぐさいものはすべて、統合ナショナリズムの理論に基づいた、UVO-OUN-UPAの政策全体の論理的な結果でした。早くも1928年、UVOのプロパガンダパンフレットの1つで、「血液が必要ですか?-血の海を与えましょう!恐怖が必要ですか?-地獄にしましょう!」そして、ボリンの虐殺が始まる少し前に、バンデラは「コリンに対する血の渇き、惨めなウクライナ人が到着した!」
バンデラの仲間は、アイデアの名の下に、サポーターの心に人間のすべてを刻み込むためにすべてをしました。民間人を完全に根絶し、彼らはウクライナ人に新しい人を教育しようとしました。同情や慈悲などの不必要な感情を奪われました...国民色の「金髪の獣」。
1943年の終わりまでに、ヴォリンとリヴネのポーランド人入植地のほぼすべてが、その住民とともに地球の表面から一掃されました。ガリシアに住んでいるポーランド人は、UPA-Westが完全に作成され武装された約1年後に同様の運命に苦しんだ。
今日でも、その虐殺の記憶はまだ生きています。つい最近、インターネットは次のメッセージを回避しました。
2007年7月2日に、ガソリンスタンドの領土にあるカフェの訪問者であるポーランドのGuta Pennik村のJanusz Marnakに住む78歳の住民は、1944年2月に第4ガリツキーボランティアSS連隊の一環としてこの村の住民800人以上を残虐的に殺害した死刑執行人の1人を認めました。
60年以上前、彼は生涯を通してこの男の顔を思い出していました。明るい外側の兆候、左頬に大きなほくろがあったからです。そのひどい朝に家に押し入ったのは、この男と別のSS男でした。ヤヌスは幸運だった-その瞬間、彼は屋根裏部屋にいて、これだけが彼の命を救った。隠れたstrawの山から、少年は両親と2人の姉妹の悲痛な叫び声を聞いた。その後、すべてが沈黙した。死刑執行人は小屋から出てきて、井戸で身を洗い、タバコに火をつけ、屋根裏の隙間からわずか5メートルのところにあるものについて話し始めました。生き残った少年は奇跡的にしがみつきました...夕方になると、犠牲者の叫び声、銃声、酔っぱらったガリシア人ボランティアの笑い声は沈黙しました。ヤヌスは小屋に入りませんでした。家の玄関先で切断された子供のブラシを見つけたとき、彼は恐ろしい場所から逃げるために急いで逃げ出し、翌朝森から出て近くの農家に行きました。後にヤヌスの両親がaでハッキングされ、2人の妹がナイフで殺され、そのうちの1人の遺体が野av人によってバラバラにされたことが判明しました。
彼の前で家族を処刑したのは死刑執行人であると確認したマルカークは、ミニバスに戻り、そこで息子と妻、弟、2人のrand孫が彼を待っていました。ガソリンスタンドを離れるつもりである場合、息子に死刑執行人を拘留するよう命じた後、父親はすぐに村に行き、その長年の悲劇の生き残った2人の証人とともに戻ってきました。約1時間、14人が殺人犯がカフェを出て駐車場に向かうのを楽しみにしていました。
...警察と救急車の到着が遅すぎた。首とrib骨が折れ、目が漏れて、多くの刺し傷を負ったため、「ギャング攻撃の犠牲者」は病院に向かう途中で死亡しました。徹底的な調査により、Marchakが間違っていなかったことが明らかになりました。ポーランドのフランチェゼクオルジェチョフスキ(ルベルスキー県)の市民は、実際には63年前にGuta Penyacka村の住民の大量処刑に参加した第4ガリツキーSSボランティア連隊の同じ「ゲスト」であるVasyl Kogutであることが判明しました。事件の詳細を知ったコグトの一人息子は訴訟を拒否しましたが、それにもかかわらず、ポーランドのテミスは、元刑事に対する「リンチ裁判」の開始者と参加者を見つけて処罰するためにエピソードを調査しています。ポーランドの検察庁は、1944年の冬に孤児になった薄い村の少年を意味する「正義の手」を要求するポーランドの国民からの怒りの手紙で今日殺到しています。
ーーー 読みにくい文章↑ ここまで ーーー
ー ー ー
ブログなど
・ヴォリンの虐殺=ウクライナ人がポーランド人にしたこと
2022-03-04
・ポーランドの方のブログより
”ヴォルィーニの虐殺”1 で取り上げた↓のを再度
2022-07-11
7月11日は “ウクライナ民族主義者がポーランド国民に対して行ったジェノサイドの犠牲者を追悼する国家記念日”
↓ Wikiより
「ウクライナ民族主義者によるポーランド共和国国民虐殺の犠牲者を追悼する国民の日」
2016 年 7 月 22 日、下院は、第二次世界大戦中に OUN、UPA、SS ガリツィア師団、およびその他のウクライナの部隊の戦闘員が組織したポーランド人に対するヴォルィニ事件の虐殺の犠牲者を追悼するこの記念日を制定しました。[5]ポーランド農民党の議員らは別の名称を提案した。「第二ポーランド共和国の東部国境でOUN-UPAが犯した大量虐殺のポーランド人犠牲者を追悼する日」
外国語のサイト・ページ
ポーランド語版から
YouTube
特にポーランド語版のYouTube動画は多いので少し。
・”ヴォルィーニのポーランド人絶滅”
・”死者を埋める - ヴォルィーニ犯罪に関するドキュメンタリー”
生存者の数名の話や写真などあり。
ポーランドの ”80年間の恥ずべき沈黙”
ポーランドのサイトから ↓
・論争か歴史の真実か?ヴォルィーニの虐殺について力強いコメントを寄せるシロンスクのファン (ポーランド語) (自動翻訳転記)
シロンスク・ヴロツワフでの最後のサッカーの試合中に、「軍」の最も熱心なファンのスタンドにヴォルィーニの虐殺への言及が現れた。ヴロツワフチームの熱狂者たちは、第二次世界大戦中にウクライナ民族主義者によって犯された大量虐殺を私たちに思い出させたかったのです。力強い言葉がありました。
最初に現れたのは、スタンドの一番下に掲げられた横断幕で、「犠牲者はポーランド人だったため、大量虐殺は沈黙のうちに過ぎ去った」というスローガンが書かれていた。しかし、それだけでは終わりませんでした。次の瞬間、大規模なセクターのグループが雄弁な「80年間の恥ずべき沈黙 - VOLYŃ '43」を掲げてスタンドに現れた。
この設定には花火ショーも含まれていました。その少し前に、訪問したファンが「ガジェット」を起動しましたが、ヴロツワフのファンは恩義を感じ続けることはありませんでした。
しかし、最も物議を醸したのは、メインフレームが組み立てられた後にスタンドに表示された小さなバナーでした。そこには、「ウクライナ人がヴォルィーニで子供たちを殺害した」、「UPAをくたばれ」、あるいはよく使われる「ポーランドのウクライナ化を阻止せよ」といった強力なスローガンが含まれていた。
この事件はエクストラクラササッカー大会の主催者によって処理された。ファクト氏によると、リーグ委員会はクラブへの処分を検討するという。
「私達はヴォルィーニを覚えています」ポーランド
ー ー ー
次↓のロシア語の論文は長いので
題名,見出し,略語等のみ転記
※リンク先の写真は閲覧注意
ロシア語論文
”忘れられたジェノサイド”:
1943年から1944年の
「ヴォリン虐殺」 文書と研究
(ロシア語 2008年頃)
導入部~解説
ソ連国家治安機関の文書に記された「ヴォリン虐殺」
1. 1944年5月20日、OUNメンバー達の逮捕
2. 1949年9月28日UPA「クルク」クレン・レフ・ヤスケビッチ副司令官の尋問手順より
3. 1945 年 1 月 6 日の OUN メンバー、ウラジミール・ゴルバチュクの尋問手順より
4. 1944 年 7 月 26 日の農民ユキム・オルリュクの尋問手順より
5. 1941年8月6日、UPA戦闘員ウラジミール・ドゥビンチュクの尋問手順より
6. 1944年5月15日のUPA戦闘員ピョートル・ヴァシレンコの尋問手順より
7. 1944年4月15日、UPA過激派アレクサンダー・リヴァルの尋問手順より
8. (1944年7月8日)UPA戦闘員グリゴリー・ペトロフの尋問手順より
9. 1944年5月8日、UPA過激派ステパン・タラシュクの尋問手順より
10. 1951 年 3 月 1 日の UPA 過激派イヴァン・グリンの尋問手順より
11. ウクライナ民族主義者によるポーランド人の絶滅に関するソ連NKGB第4総局からの特別メッセージ、1943年8月4日
12. 1944 年 8 月 21 日、UPA 夫婦の司令官ステパン・レデシの尋問手順より13. ポーランドの組織「ヴォリン撃退軍団」のチラシ、1943年。
14. 1950年4月28日、UPA過激派アダム・デムチュクの尋問手順より
15. 1945年1月6日のOUNメンバー、アントン・アンドロシュチュクの尋問手順より
16. 1944年1月26日。UPAとドイツ人との接触に関するソ連NKGB第4総局からの特別メッセージ、
17. 1944 年 2 月 5 日付けのリウネ地方の解放地域の状況に関するウクライナ・ソビエト連邦の NKGB とソ連の NKGB の報告書より。
18. ドイツ人によるウクライナ組織への武装に関するソ連NKGB第4総局からの特別メッセージより
19. 1944年6月2日、ウクライナ・ソ連西部地域のポーランド人の政治的感情に関する証明書より
20. 1944 年 12 月 9 日 OUN-UPA 組織によるポーランド国民の迫害に関する記事を含む手紙についてのソ連 NKGB 部門「B」からの特別メッセージ、
OUN(B)計画における「ポーランド問題」:強制同化から民族浄化まで
1943年のヴォリンにおけるウクライナ民族主義者分遣隊の行為からポーランド国民を守るためのポーランド地下組織とソ連パルチザン分遣隊との交流
「ヴォリンの虐殺」の軍事的影響:UPAの設立とソ連のパルチザン運動の封じ込め
1. ポーランド人虐殺中のUPAの結成
2. ドイツ戦線の背後でのパルチザン運動によるヴォリンとポレジーにおけるポーランド人虐殺の結果
略語のリスト
АК — Армия Крайова, Home Army 国内軍 (ポーランド)(1942 – 1945)
ГАРФ — Государственный архив Российской Федерации
ロシア連邦国立公文書館 ( 1992- )
гор. — город 市
ГРУ — Главное разведывательное управление Генерального штаба
参謀本部情報総局 ( 1918 - )
ДА СБУ — Государственный архив Службы Безопасности Украины
ウクライナ治安局の国家アーカイブ(1994年に作成)
NASU , НАНУ – ウクライナ国立科学アカデミー(ウクライナ国立学士院) (1918 -)
NKVD , НКВД - 内務人民委員会(1934 -1946 )
OUN , ОУН - ウクライナ民族主義者の組織(1929-1950年代)
OUN (B) , ОУН (Б) - ウクライナ民族主義者の組織 (バンデラ)
OUN(M) , ОУН(М) - ウクライナ民族主義者組織 (メルニク)
労農赤軍 (РККА) - 1918 -(後の赤軍: ソ連地上軍(陸軍) 1937-1946)
SB OUN , СБ ОУН , СБ ОУН (б) -
- ウクライナ国家主義者組織の保安局(1940-1951)
СБУ , SBU - ウクライナ保安庁 (1991- )
СВБ - 武装闘争連合 (ポーランド1939-1942)
UPA - ウクライナ反乱軍(蜂起軍) (1942–1950? )
УССР , Ukrainian SSR - ウクライナ ソビエト社会主義共和国(1919—1991)
УШПД - 大祖国戦争中のパルチザン組織のウクライナ本部(1942-45)
ФСБ , FSB - ロシア連邦保安庁 (1995- )
ЦДАВОВ - ウクライナ国家権力および行政の最高機関の中央国立アーカイブ(1920 - )
ЦДАГО - ウクライナ公共団体中央国立アーカイブ(1929 - )
ЦККП(б)У - ウクライナ共産党 (ボリシェヴィキ) 中央委員会(1919-52)
ЦШПД - 党派運動の中央本部(1942 -1944)
АК — Армия Крайова
ГАРФ — Государственный архив Российской Федерации
гор. — город
ГРУ — Главное разведывательное управление Генерального штаба
ДА СБУ — Государственный архив Службы Безопасности Украины
кол. — колония
НАНУ — Национальная Академия наук Украины
НКВД — Народный комиссариат внутренних дел
ОУН — Организация украинских националистов
ОУН (Б) — Организации украинских националистов (Бандеры)
ОУН(М) — Организация украинских националистов (Мельника)
РККА — Рабоче-крестьянская Красная Армия
СБ ОУН — Служба безопасности Организации украинских националистов
СБУ — Служба безопасности Украины
СВБ — Союз вооруженной борьбы
УПА — Украинская повстанческая армия
УССР — Украинская советская социалистическая республика
УШПД — Украинский штаб партизанского движения ЦА
ФСБ — Центральный архив Федеральной службы
безопасности России
ЦДАВОВ — Центральный государственный архив высших органов государственной власти и управления Украины
ЦДАГО — Центральный государственный архив общественных объединений Украины
ЦККП(б)У — Центральный комитет Коммунистической партии (большевиков) Украины
ЦШПД — Центральный штаб партизанского движения
http://www.laban.rs/lib/wolyn/fotos (写真ドキュメント)(閲覧注意)
ー ー ー
・・・ここまで。
略語は使えそうだったのと
略語の意味を読むだけでも
気づくことがあったので
一部ここに転記した。
ー ー ー
↑↑↑
ウクライナはソ連の一部だった事と、
壊滅に至らなかったが
ソ連はUPAを超危険視していた (る)事などもあり、
徹底的に調べ上げていたのであろう。
UPAとは…
次回は
現代の関連ニュースを中心に、その他、
追加分 等 を挙げて まとめをする予定。
”ヴォルィーニ虐殺” に関しての調べは、それで〆終えようと思う。